高山町_(鹿児島県)
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こうやまちょう
高山町
流鏑馬


高山町旗高山町章

廃止日2005年7月1日
廃止理由新設合併
高山町、内之浦町肝付町
現在の自治体肝付町
廃止時点のデータ
日本
地方九州地方
都道府県鹿児島県
肝属郡
市町村コード46484-8
面積128.76 km2
総人口14,581人
(推計人口、2005年4月1日)
隣接自治体鹿屋市、内之浦町、錦江町吾平町串良町東串良町
町の木イス
町の花キク
他のシンボル-
高山町役場
所在地893-1207
鹿児島県肝属郡高山町新富98

外部リンク ⇒高山町ホームページ[リンク切れ]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度20分40秒 東経130度56分43秒 / 北緯31.34436度 東経130.94522度 / 31.34436; 130.94522 (高山町)座標: 北緯31度20分40秒 東経130度56分43秒 / 北緯31.34436度 東経130.94522度 / 31.34436; 130.94522 (高山町)

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権現山(東串良町柏原から、中央は肝属川の河口部)

高山町(こうやまちょう)は、かつて日本国鹿児島県本土の東南部、大隅半島の東部にあった

2005年7月1日に内之浦町と合併し、肝付町の一部となった。流鏑馬の町として知られ、妖怪一反木綿が生息しているとされる伝承が残る[1]町でもあった。

合併時には大隅半島の中心地としての地位は鹿屋市に譲っていたものの、戦国時代までは肝付氏の本拠地のあった高山城城下町として、大正期の鉄道開通までは肝属川河口の波見(はみ)が貿易港として栄えていた。著名な出身者に政治家の二階堂進がいる。
地理

大隅半島のほぼ中央に広がる肝属平野沖積平野に位置する。北部を肝属川が東流し、町中心部を支流の高山川が北流する。南部は肝属山地(国見山系)が、北西部は笠野原台地が広がり、東部は志布志湾に面している。

年平均気温はおよそ17℃。年平均降水量は2,100mmほどで温暖多雨な気候といえる。
歴史「肝付氏」および「肝属川#歴史」も参照
地名の変遷

「高山」の初出は1553年天文22年)の諏訪大明神(南方神社)の棟札にある「大隅国肝付高山諏訪大明神」である。

鎌倉時代の時点では高山川を郡本河(こうりもとがわ)と呼び、川を境に東方・西方と呼ばれていた。また、江戸後期の1824年文政7年)に編纂された『高山名勝志』には「古くは神山と書いていた」という記述がある。
古代

塚崎古墳群を始めとして肝属平野を中心に大規模古墳群(横瀬古墳唐仁古墳群など)があることから、当時から大規模な集落が形成されていたようである。古墳時代には宮下(みやげ)ヤマト王権が肝付屯倉を置いたとみられる。

1036年長元9年)[2]には肝付氏が居住。現在も続く「流鏑馬」はこの約100年後に始まったとされる。
中世高山城跡

戦国時代までは肝付氏が高山城を置き、新富は城下町として機能していた。波見や肝属川の対岸の柏原(かしわばる、東串良町)は倭寇の一大拠点であった。

肝付氏は現在の肝属川・菱田川流域を中心とした所領を持ち合わせていたが、1574年天正2年)7月に島津氏に降伏。1577年(天正5年)に高山以外の所領は没収された後、天正8年12月24日[3]に肝付氏は阿多に移封され、高山も島津氏の支配下となった。
近世

1581年に肝付氏に代わり高山を支配した島津氏は、伊集院忠棟を地頭として送り込み鹿屋城を拠点として支配した。1595年に忠棟が都城に移封された後は島津氏の直轄領となり、高山には外城がおかれるようになった(外城は後に郷と改称)。高山城は廃城となり、弓張城が高山郷の城として使用された。波見は南方への貿易港として利用され、薩摩藩の重大拠点とされた。なお、1631年 - 1640年までは内之浦も高山郷の一部であった。
近現代1938年の風水害による高山町商店街の被害の様子(高山川水害史碑より)

1889年町村制施行に伴う明治の大合併により「高山郷」内の7か村(波見・野崎・新富・前田・後田・宮下・富山)が合併して高山村が成立。1932年4月に町制を施行し高山町となった。

高山村として成立してから内之浦町と合併するまでの116年間、一度も合併することはなかった。昭和の大合併時には吾平町との合併案が鹿児島県から示されていたが、吾平町側の反対により頓挫している(鹿屋市#昭和の大合併を参照)。

1871年 - 廃藩置県に伴い鹿児島県に属す。ただし、同年12月(新暦)より1年ほど都城県に属していた。

1889年4月1日 - 町村制施行により肝属郡高山村として設置される。

1895年10月15日 - 村立女子実業補習学校(後の県立高山高等女学校、県立高山高校)を設置。

1920年12月23日 - 大隅鉄道の高山駅(後の大隅線大隅高山駅)が開業。

1932年4月1日 - 町制施行。

1938年10月15日 - 肝属地方風水害が発生。死者・行方不明者50人以上[4]。1957年に高山町により『昭和13年高山地方風水害誌』が刊行されている。

1940年 - 塚崎のクスが国の天然記念物に指定される。

1945年 - 塚崎古墳群・高山城が国の史跡に指定される。

1972年12月 - 町章を制定。

1975年 - 高山町庁舎(現在の肝付町役場)が完成。

1987年3月14日 - 大隅線が廃止される。

2002年12月18日 - 国見トンネルが開通。

2005年7月1日 - 内之浦町と合併し自治体としては消滅。肝付町の一部となる。

内之浦町との合併.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに内之浦町・高山町を廃し、肝付町を設置する件の原文があります。

平成の大合併では、まず高山町・内之浦町・串良町・東串良町の4町で2003年4月に肝属東部合併協議会を設置した。しかし、同年10月に串良町が鹿屋市との合併を望んだために協議会から離脱し、東串良町議会でも協議会からの離脱が可決。2004年1月には合併協議会の枠組みを3町に変更する議案も否決されるなど、合併協議会は機能不全状態に陥った。2005年3月の旧合併特例法[5]の期限までの合併実現が不透明となったことから、高山町と内之浦町は2004年3月に肝属東部合併協議会を休止し、新たに肝属合併協議会を設置した。


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