高山清司
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たかやま きよし
髙山 清司

生誕 (1947-09-05) 1947年9月5日(76歳)
愛知県津島市
住居 三重県桑名市
国籍 日本
職業暴力団組長
活動期間1967年 -
団体 山口組
肩書き六代目山口組若頭
三代目弘道会総裁
補足
ウィキクォートに髙山清司の発言録があります。
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髙山 清司(たかやま きよし[1]1947年昭和22年〉9月5日[2] - )は、日本ヤクザ特定抗争指定暴力団・六代目山口組若頭と三代目弘道会総裁を兼務する。

六代目山口組第二の有力者と目される人物で、警察庁の報告書は、僅か26年という短期間で弘道会という組織を4,000名の人員を擁するまでに強化した張本人(中心人物)と名指した[3]。六代目山口組組長・司忍が銃刀法違反の罪で服役していた時期(2005年 - 2011年)には、山口組の「事実上の最高指導者」とされていた[4]
来歴
生い立ち

1947年昭和22年)に愛知県津島市で生まれる[5]。少年時代は野球に打ち込んでいた。しかし、高校時代に野球ボールを顔面に受け、右瞼の神経と筋を切るケガを負う。これがもとで瞼が常に垂れ下がる状態となり、現在の片目を瞑る容貌となった[6]。その後、喧嘩沙汰を起こし高校を中退する。
暴力団への加入

1967年(昭和42年)、20歳で山口組弘田組傘下の佐々木組に加入する[7]1969年(昭和44年)に弘田組と独立組織・大日本平和会との間で、組員の移籍に関するトラブルが生じる。すぐさま件の組員の移籍先である弘田組系神谷組が襲撃を受け、死傷者を出す事態に発展した。

この報復に動いたのは、髙山の所属する佐々木組と司興業であり、司興業組長・司忍の指揮のもと髙山は、大日本平和会系豊山一家組長・豊山王植の殺害に関与する。事件後、懲役4年の判決を受けた[8]。出所後に佐々木組若頭に就任し、同組内に髙山組を結成する。1976年(昭和51年)には弘田組の直参に昇格し、1980年(昭和55年)には若頭補佐に昇格する。

1984年(昭和59年)に弘田組の後継組織である弘道会が発足した後も継続して若頭補佐を務めて1989年平成元年)には若頭に昇格した。
山口組直参昇格後

2005年平成17年)3月には弘道会の二代目を継承する。翌4月に五代目山口組の直参に昇格し、同年7月に司忍を首領に据えた六代目山口組の発足と同時に、司が務めていた若頭の役を引き継ぐ[9]

2013年(平成25年)には、後述する恐喝事件での収監を見越して「子分中の子分」とされる竹内照明に弘道会の跡目を譲る。自身は弘道会の総裁に就任する[10]
恐喝事件(2010年)
逮捕

2010年11月18日[11]建設業に従事する京都府の男性を配下組員と共に恐喝した容疑で逮捕された。司忍が服役していた最中の出来事であり、山口組の「事実上の指導者」の歴史的逮捕であった[12]

いずれにしても件の逮捕は警察当局による“山口組壊滅作戦”の一環にあたるものとされた出来事で、それからわずか2週間後には六代目山口組第三の有力者と目される宅見組組長の入江禎が逮捕されるに至っている[13]
起訴後・公判

2010年12月8日には京都地検が恐喝の罪で髙山を起訴し[14]京都拘置所に勾留されていたものの、病気を理由に2012年1月20日から同年2月20日まで勾留停止となる[15]


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