この項目では、京都市右京区梅ヶ畑の高山寺について説明しています。その他の用法については「高山寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
高山寺
所在地京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度3分36.39秒 東経135度40分42.85秒 / 北緯35.0601083度 東経135.6785694度 / 35.0601083; 135.6785694
高山寺(こうざんじ、こうさんじ)[1]は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町(とがのおちょう)にある真言宗系単立の寺院。山号は栂尾山。本尊は釈迦如来。
栂尾は京都市街北西の山中に位置する。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた隠棲修行の場所であったらしい。 高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁は承安3年(1173年)に紀伊国有田郡(現・和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅氏の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。 明恵は法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。ただし、明恵はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。 明恵は建永元年(1206年)11月、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。 また明恵は、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い、当寺の境内に植えたという伝承がある。この地で栽培された茶は、栄西が南宋へ留学した際にそこで種子を得て、帰国後に明恵の求めに応じて贈ったものと伝える。明恵はこれを初めは栂尾山の深瀬に植え、明恵が没した後も栂尾において栽培が続けられた。また宇治の民の願いによって明恵が宇治に種を撒き、宇治その他の土地に広まったとも伝える。 なお、この栂尾産の茶は鎌倉時代後期にはその味わいの良さが評判となり、金沢貞顕ら東国の武士たちまで争って求めるほどの高評価を得た。このため室町時代初中期に盛んに行われた闘茶においては、「我が朝の茶の窟宅は、栂尾をもて本となすなり」(『異制庭訓往来』)として栂尾産の茶を「本茶」と呼び、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだ[2]。 承久元年(1219年)に建立された本堂には、運慶作の丈六盧舍那仏が置かれたというが、室町時代に焼失している。 高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。 1966年(昭和41年)に、当寺は仁和寺当局による双ヶ丘の売却に抗議して真言宗御室派から離脱し、以後は真言宗系の単立寺院となった。 建永元年(1206年)11月の中興から20数年を経た寛喜2年(1230年)に作成された高山寺境内の絵図(重要文化財、神護寺蔵)が現存しており、当時の様子が具体的にわかる点で貴重である。それによると当時の高山寺には、大門、金堂、三重塔、阿弥陀堂、羅漢堂、鐘楼、経蔵、鎮守社などがあったことが知られるが、このうち、当時「経蔵」と呼ばれた建物が「石水院」として現存するほかは、ことごとく失われている。石水院から開山堂に至る道の両側に残る石垣は、かつての諸堂や塔頭を偲ばせている。
歴史
境内
金堂 - 寛永年間(1624年 - 1644年)に仁和寺真光院から古堂を移築したもの。
春日明神社
明恵上人御廟
御廟門
開山堂 - 江戸時代の再建。明恵が入寂した禅堂院の跡地に立つ。明恵の肖像彫刻(重要文化財)が安置されている。
法鼓台文庫 - 収蔵庫。
法鼓台
茶園 - もとは高山寺の中心的僧房・十無尽院があった場所だとされる。明恵が、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い植えたという伝承に基づき、「日本最古の茶園」の石碑が建つ[3]。
茶室「遺香庵」 - 1931年(昭和6年)に大原孫三郎、根津嘉一郎、住友吉左衛門、団琢磨、堂本印象など財界人を中心とした103名の寄進により建てられた。
庭園「遺香庵庭園」(京都市指定名勝) - 1931年(昭和6年)に小川治兵衛により作庭。
腰掛待合「茶徳亭」 - 鐘楼でもある。掛けられている梵鐘は「茶恩鐘」と呼ばれる。
庫裏
客殿
石水院(国宝) - 五所堂とも呼ばれる。鎌倉時代の建築。入母屋造、?(こけら)葺き。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝える。外観は住宅風だが本来は経蔵として造られたものである。もとは東経蔵として金堂の東にあった。