高尾紳路
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 高尾紳路 九段
名前高尾紳路
生年月日 (1976-10-26)
1976年10月26日(47歳)
プロ入り年1991年
出身地千葉県千葉市
所属日本棋院東京本院
師匠藤沢秀行
段位九段
概要
タイトル獲得合計15
七大タイトル
棋聖挑戦者 (2012)
名人2期 (2006・2016)
本因坊3期 (2005-07)
天元1期 (2014)
十段2期 (2008・2014)
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高尾 紳路(たかお しんじ、1976年10月26日 - )は、日本棋院東京本院所属の囲碁のプロ棋士九段千葉県千葉市出身、藤沢秀行名誉棋聖門下。本因坊雅号は「秀紳(しゅうしん)」。

本因坊3連覇、名人2期、十段2期、天元1期など。

張栩山下敬吾羽根直樹らとともに「平成四天王」と称される。
人物

師から受け継いだ手厚い碁で、地に辛い傾向の強い現代碁界に異彩を放つ。

早くから若手の有望株として期待を受けるが、タイトル戦線では他の四天王3人にやや遅れを取ってきた。しかし2005年、新参加でありながら本因坊リーグを勝ち抜き、張栩本因坊を4勝1敗で破り、初の七大タイトルを獲得。2007年まで本因坊位を3連覇した。

2013年以降、井山裕太が七大タイトルを独占し始める中、2014年に十段天元、2016年には七冠王となった井山から名人位を獲るなど健闘している。

実兄は、歴史学者の高尾善希。芸人のザブングル加藤歩は親戚。
来歴

1976年10月26日千葉市で生まれる。囲碁愛好家の父の影響で小学生で兄と一緒に囲碁を覚える。やがて学校から帰ったらすぐに碁会所に出かけるという日々になる。この碁会所には森田道博(現九段)がいた。千葉市立桜木小学校1年の時にアマ初段、小学2年のときには五、六段に腕を挙げた。この時囲碁ライターでアマ強豪の田岡敬一に師事。田岡はすでに三村智保(現九段)や森田道博を教えていた。また田岡は藤沢秀行(現名誉棋聖)と親交が深く三年生の時から藤沢の主宰する「秀行合宿」に参加した。高尾のために自宅には囲碁専門書が取り揃えられ詰碁を解くのが日課となった[1]

1985年、小学3年生のときに千葉県の代表として第6回少年少女囲碁大会小学生の部の全国大会に出場。ベスト16まで進む。1986年、第7回少年少女囲碁大会に出場。黒瀧正憲(現八段)・久保秀夫(現七段)らに勝利し決勝進出。決勝の相手は後にライバルとなる北海道代表・山下敬吾(当時小学校2年生、現九段)だった。高尾が優勝しても最年少記録だったが、2歳年下の山下に敗れ準優勝となる。この山下の小学2年生での優勝という記録は未だに破られておらず、1997年に井山裕太(現九段)がタイ記録に並んだのみである[1]

全国大会準優勝のあと小学4年生の秋に日本棋院東京本院の院生になる。院生時代は柳時熏(現九段)があっという間に上のクラスに行ってしまったことが記憶に残っている。高尾もかなりのスピードで最上位のAクラスに行ったもののそこから時間がかかってしまった。小学5年生の時に院生Aクラスに登ったのを機に藤沢秀行研究会に参加することを許された。森田・三村とともに田岡から藤沢の弟子になる時に、藤沢は碁の面倒は見るが3人は田岡が育てたのだから田岡門下でいいじゃないかと言ってくれたが田岡が「それでは将来きっと苦労する。秀行門下のほうがあいつらも幸せ」と親心で送り出し3人は藤沢の正式な弟子となった[2]。中学2年生のときに棋士採用試験に1位で合格。1991年入段。同期にライバルとなる羽根直樹(中部総本部採用・現九段)がいる。入段1年目は同期6人の中で高尾だけが昇段できなかった。入段後は公式戦で打った碁の棋譜をすべて藤沢にFAXで送って講評してもらっていた。1992年に棋聖戦初段戦に優勝、5年に二段戦優勝、6年には三段戦に優勝した。さらに1995年には公式戦21連勝を記録した[1]

入段6年目、1996年の第21期新人王戦決勝で仲邑信也五段に2-0で勝利し公式戦初タイトル獲得。またこの年五段に昇段した。第30回棋道賞新人賞を受賞。新人王戦優勝・成人を機に一人暮らしを始める。借りた部屋で研究会を始める。メンバーは張栩蘇耀国溝上知親(3人とも現九段)など。中野駅の近くだったので「中野研究会」と呼ばれた。また溝上が学んでいた緑星囲碁学園と交流戦もしていた。この研究会は2年ほど続いた[1]。またこの頃藤沢の意向により習字を習い始める。時間の無駄のように思ったこともあったが、のちに棋士としてサインを求められるようになり、習っておいてよかったと感じたとのちに記している[2]

1998年、師匠藤沢秀行の引退碁企画の対局相手の1人に選ばれる[2]。この年勝率.806(50勝12敗)で第32回棋道賞勝率第一位賞受賞。1999年、61勝14敗で第33回棋道賞棋道賞最多勝利賞・最多対局賞を受賞。

2000年頃からトーナメント棋戦で決勝進出を繰り返すようになる。2000年2月、第30回新鋭トーナメント戦準優勝(優勝:山下敬吾)。3月、第15期NEC俊英トーナメント戦優勝(準優勝:羽根直樹)。8月、第9期竜星戦優勝(準優勝:高木祥一)。第34回棋道賞連勝賞受賞(20連勝)。2001年3月、第16期NEC俊英トーナメント戦優勝(準優勝:秋山次郎)。2002年2月、第33回新鋭トーナメント戦優勝(準優勝:金秀俊)。3月、第22期NECカップトーナメント準優勝(優勝:柳時熏)[1]。一方で、三大棋戦ではリーグ入りまであと1勝の最終予選決勝での敗退が続いた(2000年5月第25期棋聖戦最終予選決勝で宮沢吾朗九段に敗北、11月第26期名人戦最終予選決勝で趙善津九段に敗北、2001年7月第57期本因坊戦最終予選決勝で山田規三生八段に敗北)[1]

2003年、1月16日第41期十段戦二十五世本因坊治勲を破り挑戦者決定戦に進出。1月20日、八段昇段。2月10日、山下敬吾七段を倒し十段位挑戦者となる。第41期十段位に挑戦するも、王立誠に2-3で敗れる。新鋭トーナメント戦優勝。竜星戦優勝。5月、第28期棋聖戦最終予選決勝で三村智保九段に敗北。10月、第29期名人戦最終予選決勝で山田規三生八段に敗北[1]

2004年、棋道賞最多勝利賞(44勝)。連勝記録賞(15連勝)。2004年3月に、慶應義塾大学囲碁部女子部で主将を務めたアマ女流と結婚[3]。夫婦仲がよいことでも、囲碁雑誌で取り上げられる。8月12日、第60期本因坊戦最終予選決勝で植木善大八段を破りついに念願の三大リーグ入りを果たす。

2005年、第60期本因坊戦でリーグ戦初参加で即挑戦権を獲得。7番勝負では張栩本因坊を4-1で降し、自身初の七大タイトルとなる本因坊位を獲得。規定により6月29日、八段より九段昇段。第43回秀哉賞受賞。

2006年、第61期本因坊戦で山田規三生九段の挑戦を4-2で退け、本因坊初防衛に成功。第31期名人リーグに初参加初挑戦(名人戦史上初)、張栩を4-2で降して実力制6人目の名人本因坊に輝いた。第44回秀哉賞を2年連続で受賞。第1回大和証券杯ネット囲碁オープンにも優勝し、同年の自身初の賞金ランキング1位に輝く。

2007年、第62期本因坊戦で依田紀基の挑戦を4-1で降し、3連覇を達成。名人戦で張栩に3-4で敗れ、名人位を手放す。第3回大和証券杯ネット囲碁オープンでは優勝を果たす。

2008年、第46期十段戦で挑戦権を獲得し、趙治勲との5番勝負では3連勝で十段位を奪取。第63期本因坊戦で羽根直樹九段に三連勝後四連敗で失冠。10月、第1回ワールドマインドスポーツゲームズ囲碁男子団体戦に依田紀基、山下敬吾、羽根直樹、河野臨と日本代表チームを組んで出場し、銅メダルを獲得する[4]

2009年、第47期十段戦で張栩に1-3で敗れ、無冠となる。


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