高尾光子
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たかお みつこ
高尾 光子

本名高尾 みち子 (たかお みちこ、出生名)
竹田 路子 (たけだ みちこ、婚姻時)
別名義高尾 道子 (たかお みちこ)
生年月日 (1915-07-22) 1915年7月22日
没年月日 (1980-11-26) 1980年11月26日(65歳没)
出生地 日本 兵庫県西宮市
職業女優、元子役
ジャンル演劇劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間1921年 - 1980年
著名な家族山野海(孫)
主な作品
『地蔵物語』
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高尾 光子(たかお みつこ、1915年7月22日 - 1980年11月26日[1])は、日本女優、元子役である。本名は高尾 みち子(たかお みちこ)だが、婚姻後は竹田 路子と名乗った。旧芸名は高尾 道子(たかお みちこ)である[1]
人物・来歴

1915年(大正4年)7月22日兵庫県西宮市に「高尾みち子」として生まれる[1]

東京府東京市(現在の東京都)に移り、1921年(大正10年)、父親が衣裳部を務める日活向島撮影所に子役として入社する[1][2]。同年2月16日に公開されたサイレント映画『嵐の舞』に出演[2]、ついで同年6月14日公開、山本嘉一女形東猛夫が主演した『恋の墳墓』に「高尾道子」の名で出演して、満5歳でスクリーンデビューを果たした。同年5月1日、松竹キネマ(現在の松竹)が前年に開設した松竹蒲田撮影所に移籍[2]、「高尾光子」に改名し、賀古残夢監督の『月魄』、大久保忠素監督の『地蔵物語』等に子役として出演する[1]

1922年(大正11年)4月1日、旧制・蒲田小学校(現在の大田区立蒲田小学校)に入学する[2]。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で同撮影所は壊滅、京都にある松竹下加茂撮影所に同撮影所全体で異動、現代劇作品に出演した。翌1924年(大正13年)には蒲田が復興し、東京に戻る。牛原虚彦監督のオムニバス『子供の世界』の第三篇で主演、以降、主演作が増える。1928年(昭和3年)3月、蒲田小学校を卒業、卒業後は横浜の個人英語教授に通う[2]。舞踊については、沢村紀久八に師事する[2]

子役から脱皮し、娘役を演じられるようになると、1933年(昭和8年)10月、松竹下加茂撮影所に異動し、時代劇に出演、高田浩吉市川右太衛門の相手役を演じた。

1935年(昭和10年)、松竹を退社してP.C.L.映画製作所に移籍、トーキーに出演する。同年、イギリス領ビルマとの合作映画で、「ビルマ映画の父」と呼ばれるウー・二イプ(英語版)監督の『にっぽんむすめ(英語版)』に出演する[3]。1937年(昭和12年)7月1日に公開された、滝沢英輔監督の『東海道は日本晴れ』に出演したのを最後に、満22歳の誕生日を目前に映画界を引退、同年、東京劇団に入団して舞台演劇に進出した[1]

第二次世界大戦終結後の1955年(昭和30年)、稲垣浩監督の『旅路』で、ひさびさに映画界に復帰した。

脚本家と結婚して芸能界を引退し、1970年代は東京新橋の烏森口で焼き鳥屋を経営し、娘と孫の3人で暮らしていた。孫娘は杉田かおる児童劇団劇団若草での仲間だったという[4]

1980年(昭和55年)11月26日、死去した[1]。満65歳没。
フィルモグラフィ

すべて出演、特筆以外「高野光子」名義、個別作品の製作所表記はレンタル出演である。
日活向島撮影所
1922年


『嵐の舞』 : 監督・脚本不明、出演不明 - 「高野道子」名義
[2][5]

『恋の墳墓』 : 監督・脚本不明、主演山本嘉一東猛夫 - 「高野道子」名義

松竹蒲田撮影所
1922年


月魄』 : 監督賀古残夢、原作菊池幽芳、脚本伊藤大輔、主演武田春郎川田芳子


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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