高富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋
に置かれた。[1]元来、本庄家は江戸定府で、その出自や立地から京都の公家衆との付き合いも多く、小藩に見合わない出費が多くあった。そのため第8代藩主・本庄道昌の時代から財政窮乏が始まる。第9代藩主・本庄道貫は厳しい倹約令を出し、百姓に対しては植林を薦める一方で莫大な献納金徴収を図ったが、この藩政改革は失敗した。そのため、今度は年貢増徴政策、藩札の発行から京都の豪商を財政顧問として招いての藩政改革を図ったが、これも年貢増徴に反対する百姓の反対で頓挫する。道貫はその後の安政5年(1858年)にも藩政改革を図ったが、同年8月26日に道貫が死去したため、またも頓挫した。
その跡を継いだ第10代藩主・本庄道美の時代になると藩財政は完全に破綻し、慶応4年(1868年)には藩内で打ちこわし、百姓一揆が起こった。この頃、高富藩は20万7400両もの借財を抱えていた。藩内の庄屋をはじめとする豪農にも多額の借財があったが、その大半は後の版籍奉還で証文のまま終わっている。1万石と言えど、知行地の本領が美濃、分領は遠く関東にあるという事情も、藩財政の窮乏の原因であるようである。
明治2年(1869年)の版籍奉還で道美は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で高富藩は廃藩・高富県となった。明治5年(1872年)、高富県は岐阜県に編入された。
歴代藩主10人のうち、6人が幼少、もしくは病弱で嗣子がなく、たびたび縁戚関係やあるいは他姓の末期養子を迎えていた。 1万石。譜代。 明治維新後に、山県郡5村(旧幕府領)が加わった。なお相給が存在するため、村数の増加は3村である。
歴代藩主
本庄家
道章(みちあきら) 従五位下 宮内少輔
道矩(みちのり) 従五位下 大和守
道倫(みちとも) 従五位下 和泉守
道堅(みちかた) 従五位下 大和守
道信(みちのぶ) 従五位下 大和守
道揚(みちあき) 従五位下 山城守
道利(みちとし) 従五位下 甲斐守
道昌(みちまさ) 従五位下 式部少輔
道貫(みちつら) 従五位下 伊勢守
道美(みちよし) 従五位下 宮内少輔
幕末の領地
美濃国
各務郡のうち - 2村
方県郡のうち - 7村
山県郡のうち - 4村
下野国
梁田郡のうち - 6村(うち5村を館林藩に編入)
脚注[脚注の使い方]^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(307ページ)
関連項目
岩滝藩
外部リンク
⇒高富(本庄甲斐守道利) 。大名家情報 - 武鑑全集
歴
大政奉還から廃藩置県までの間に存在した藩
慶応3年(1867年)旧暦10月 - 明治4年(1871年)旧暦7月