高家肝煎
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出典検索?: "高家" 江戸時代 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年5月)

高家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格旗本(高家旗本)を指す。

役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。
創設

江戸幕府の典礼に関する職制は、開幕後段階的に整備された。慶長8年(1603年)、徳川家康征夷大将軍宣下の式典作法を大沢基宿に管掌させたのが、役職としての高家の起源である。ただし、当初は役職として「高家」の名称はなかった。慶長13年(1608年12月24日吉良義弥が従五位下侍従・左兵衛督に叙任され、大沢基宿とともに典礼の職務に加わった。のちに高家職就任時に従五位下侍従に叙せられる慣行ができたため、さかのぼってこの日を「高家」制度のはじまりとすることもある[1]。元和2年(1616年)には、一色範勝が大御所徳川家康のもとで幕府饗応役に任じられている。「高家」の名称や慣行が確定したのは、徳川秀忠元和寛永年間とみられる。高家の功績として顕著な例としては、正保2年(1645年)吉良義弥の義兄弟である今川直房が「東照宮」の宮号を交渉のすえ朝廷より得たことである。

考証家として知られる三田村鳶魚の著書『武家の生活』には、元和元年(1615年)に徳川秀忠が足利一門である石橋家吉良家今川家の3家を登用したことを記して「高家」の始まりとしている。この記述を踏襲する書籍もあるが、石橋家という高家は存在せず、正確ではない。

その後、江戸へ下向した公家の二・三男の子孫も加わるなどその数は順次増加し、安永9年(1780年)には26家となった。以後、幕末までその数は変わっていない。
制度
役職としての「高家職」

幕府の組織制度において高家職は、老中の管轄支配下とされた。

主な職務として伊勢神宮日光東照宮久能山東照宮寛永寺鳳来山東照宮への将軍の代参という将軍の代理としての職務、および幕府から京の朝廷への使者の職務、逆に朝廷からの勅使院使の接待や、接待に当たる勅院使(饗応役大名)への儀典指導など、朝幕間の諸礼に当たった[2][3][4]

高家職に就くことができるのは、「『高家』の家格を持つ旗本(高家旗本)」のみである。高家職に就いている高家旗本を「奥高家」という。高家職の人員は年代によって異なっており、延宝年間には9人、安政5年(1858年)には17人が就いている。さらに、奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している3名を選んで高家肝煎(こうけきもいり)とした(「三高」と呼ばれた[2]。一部に「高家筆頭」と書く書もあるが、当時「高家筆頭」という職や呼び方があったかは疑問である[3])。天和3年(1683年)に大沢基恒畠山義里吉良義央の3名が高家肝煎とされたのがはじまりであるが、高家肝煎となる家は固定されていたわけではない。職務内容的にも、各儀礼の知識と経験値が高いものが選ばれることとなり、若くして抜擢されるようなことはほとんどない。三人のうち一人ずつ宿直し、詰所は寺社奉行・御奏者番の隣で町奉行の上である。席は譜代大名の詰所の雁の間だった。肝煎料は800俵だが、幕末には役料として1500両が月割で支給されるようになった[5]。公式の場における礼儀作法を諸大名に伝授することも職分であり、その際、相応の謝礼を受けることが黙認されていた。諸侯から贈られる金額は相当の額に及び、そのため生活は楽であった[5]

他方、高家職に就いていない無役の高家旗本は「表高家」といい、年頭、歳暮、五節句以外では登城しない[5]

後に高家見習も設けられ、主に高家職の嫡子から選ばれた。一時的であるが、御側高家(側高家、1709-1716)、および将軍世子に近侍した西丸高家(西城高家、西の丸高家。1650-1651年、家綱に近侍)が設けられているが、その職位は奥高家や表高家とは著しく異なったようである[3]

なお、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就くことができないのが原則である。高家以外の職に就く場合は、一度高家旗本の格式を離れ、一般の旗本に列してからとなっていた。
家格としての「高家」

高家職に就くことのできる旗本(高家旗本)は、主に著名な守護大名戦国大名の子孫や公家の分家など、いわゆる「名門」(原義の「高家」)の家柄で占められた。

最初期の高家職を務めた大沢基宿は、公家持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮という皇族の末裔を母とする人物である。室町幕府の成立過程から守護大名には足利氏一門が多く、吉良義弥一色範勝今川直房らの高家はその末裔である。他には赤松氏土岐氏などの非一門の室町幕府下の名族・守護大名の家柄も高家となっている。高家の創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫を臣下に従えることにより、対朝廷政策を優位に運びたかったためと思われる。徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」という、政権の正当性および権力誇示という見方が強い。

高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、武家にしては、官位は高かった。奥高家(高家職)に就任すると、ただちに従五位下侍従に任じられる。奥高家を務める者の官位・官職は従五位下から従四位下の侍従であることが大半であるが、高家肝煎に就任した者などは最高で従四位上左近衛権少将まで昇った(制度草創期の大沢基宿は、例外として正四位下左近衛中将に昇っている)。大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である。『忠臣蔵』(赤穂事件)で知られる吉良義央も、わずか4200石取りながらも、従四位上左近衛権少将だった。赤穂藩浅野長矩は5万3000石を領する大名だが、官位の上では従五位下諸大夫でしかなく[3]、時の幕府の最高権力者側用人甲府15万石を領した柳沢吉保でも従四位下左近衛権少将であり、官位の上では吉良義央の方が両者より上だった。

ただし、非役の高家(表高家)は、昇殿する必要がないため、叙任されない。
明治以降

明治維新後、朝臣に転じた高家と交代寄合の各家は、下大夫(1000石以上の一般旗本)や上士(1000石以下100石までの一般旗本)に列した一般旗本より高い中大夫席を与えられていたが[6]、明治2年(1869年)12月に中大夫以下の称が廃止されるに伴い、一般旗本と同様に士族に編入された[7]


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