高塚新田
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高塚新田
大字
松戸市立福祉医療センター東松戸病院。旧松戸療養所から続く通算80年の歴史を持つ。
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日本
都道府県 千葉県
市町村 松戸市
人口(2017年(平成29年)11月1日現在)[1]
 ? 合計12,221人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号270-2222[2]
市外局番047[3]
ナンバープレート松戸

高塚新田(たかつかしんでん)は、千葉県松戸市の地名。郵便番号は270-2222[2]

従来の松戸市における住所表示は「塚」の字にテンがつくものであったが、2013年2月よりテンが付かないものに改められている[4]。尚、表記には「塚新田(※塚はテンがつく)」「塚新田」等、高が(はしごだか)となっている表記も見られる。
地理

松戸市東南部に位置する。東葛台地の南端に位置し、長年、「陸の孤島」と呼ばれてきた農村地帯であったが、1970年代以後に急速に開発が進み住宅地が広がった。だが、古くからの農家も多く存在し、特産品のを売り物とした観光農園も多数存在する。

地域の東縁をJR武蔵野線が、北縁を北総鉄道北総線が走るが、駅は設置されていない。ただし、北総線秋山駅とは国道464号を挟んで隣接関係にある。また、この地域から京成バスがJR総武線(総武緩行線)・都営地下鉄新宿線本八幡駅京成本線京成八幡駅、JR総武線(総武緩行線・総武快速線市川駅及びJR武蔵野線・北総線東松戸駅まで、新京成バスがJR常磐線新京成電鉄新京成線松戸駅まで路線バスを運行している(なお、新京成バスの路線は平成20年(2008年)に京成バスから移管されたものである)。

東は市川市大町・同大野町、西は松戸市秋山・市川市稲越、南は市川市下貝塚・同曽谷、北は松戸市紙敷と接している。
小字

新田前、清原、壱本松、突棚、小濱屋敷、居向、天神山、中ノ窪、一ノ谷、木戸前、八町分、赤作、野中、札場、野貝塚、背上、八幡越、傘棒、稲越前、駒形、丸山、池ノ臺、北谷臺、受原、内野、新堀込、中臺の小字がある。
地価

住宅地の地価は、2014年平成26年)1月1日公示地価によれば、高塚新田字北谷台641番52の地点で9万2000円/m2となっている。[5]
歴史
江戸時代

江戸時代には小金牧中野牧の外れに位置して「高塚原」と称されており、周囲の村々(大野・紙敷・秋山・稲越)が開けていく中で原野として残されていた。

江戸時代前期に国分村(現在の市川市国分)の名主・組頭の申請により開発が許可され、延宝4年(1676年)に初めての検地が行われ、この時に「高塚新田」が成立した(開発はそれ以前より行われたと考えられている)。検地帳によれば、反別(田畑に面積)は下畑のみで175町1反余、屋敷地は2町8反余(25筆)、名請人(検地帳に載せられて年貢を納める義務を有する者)は83名、開発の主体となった国分村出身者が最大の11名を占め、かつ全体の2割にあたる35町余の耕地を有していた。それに続いて江戸・紙敷・稲越の住人が続いた。

その後、元禄15年(1702年)の検地では石高895石余とされている。だが、反別の総量は延宝時とほぼ同一ながら、下畑124反9町余・松山30町5反余・芝地19町6反余と記載されている(屋敷地は延宝時と変わらず)。つまり、畑が50町分荒廃して松山や芝地化してしまったことを示していると考えられている。更に元文3年(1738年)の検地では残された下畑のうち51町余が荒廃して松山に編入されて73町余となり、明和6年(1779年)には更に18町余りが荒畑と認定されたため、実質は下畑55町余りとなってしまっていた。

元来この地域は地質が悪く、なおかつ野火や鳥獣による被害に遭いやすい土地柄であった。明和7年(1780年)の記録(「岡田家文書」)によれば、が主食で稀に陸稲大豆大根蕎麦を作る家もあったがは作れなかったと記されるなど、厳しい生活状況であったことが記されている。また、文政10年(1827年)に作成された「農間商渡世之者名前取調書」によれば、高塚新田の51軒のうち11軒が農間商渡世で、うち1件は安永6年(1777年)以来の居酒屋であったことが記されている。更に実際の耕地が減少したにもかかわらず江戸時代を通じて石高895石余が維持された一方で、租税は増加していったことが記録されている。

しかも、高塚新田は早くから松戸宿助郷(大助郷)を命じられていたが、天保年間に入ると内外情勢の緊迫化に合わせて、同8年(1837年)には千住宿(当分加助郷)、同14年(1843年)には八幡宿の助郷(定助郷)も合わせて命じられた。なお、一連の助郷負担増加を前に作成された天保7年(1836年)の人別帳によれば、52軒・人口249人でうち11人が他郷に奉公中であった。
近・現代

明治維新後、天領から葛飾県印旛県を経て千葉県の一部となり、明治22年(1889年)、大橋・秋山・紙敷・和名ヶ谷・河原塚・田中新田・串崎新田の7ヶ村と合同して東葛飾郡八柱村となった。明治以後梨栽培が盛んに行われ、昭和13年(1938年)には当時の松戸町と合併し、5年後の昭和18年(1943年)には市制施行によって松戸市の一部となった。

だが、鉄道路線とは全く無縁であったこの地域は東京からわずか20km圏内でありながらその恩恵を受けることはほとんどなく、明治24年(1891年)の戸数54・人口371人(厩26)、戦後の昭和30年(1955年)になっても世帯数127・人口752人にしかならなかった。

昭和16年(1941年)には、 旧東京市(現在の東京都)が高塚新田字天神山の地に感染症の療養所の開設を決定し、翌年の昭和17年(1942年)に「東京市松戸療養所」として長期療養患者の受け入れを開始する[6]


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