高堂 隆(こうどう りゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の官僚、政治家。字は升平。魏に仕えた。?州泰山郡平陽県の人。前漢の儒者高堂生
の子孫にあたる。なお、魏書方技伝に引用される馬鈞の記事には、馬鈞が指南車を完成させる前に、高堂隆と秦朗が「指南車などは昔の記録が適当に書いただけだ」と主張して馬鈞を嘲笑したと記録されている[1] 。
逸話
都の督軍が薛悌と論争したとき、薛悌を名前で呼んで怒鳴りつけた。高堂隆は剣の柄に手をかけて督軍を叱り、「昔、魯の定公が侮辱されたとき、仲尼(孔子)は階段を上がってたしなめ、趙王が秦の琴を弾かされたとき、藺相如は秦王に缶(かめ。打楽器として使う。)[2]を叩かせた。下臣を前にして主君を名前で呼べば、道義では討ち果たすことになっている。」督軍は真っ青になり、薛悌は慌てて起(た)ち上がり彼を引き留めた。
裴松之は考える。魏の台(尚書省)から「物故」の意味について質問があったとき、高堂隆は答えた、「この言葉の意味は先師から次のように聞いております。物とは無の意であり、故とは事の意であって、二度と何事もすることができないという意味です。」[3]
脚註[脚注の使い方]^ 陳寿「三国志」ちくま学芸文庫版4巻P342
^ 素焼きの器。瓦盆
^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」の注
参考文献
『三国志』魏書25高堂隆伝
表
話
編
歴
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
太祖武皇帝曹操
巻2 文帝紀
文皇帝曹丕
巻3 明帝紀
明皇帝曹叡
巻4 三少帝紀
斉王曹芳
高貴郷公曹髦
陳留王曹奐
巻5 后妃伝
武宣卞皇后
文昭甄皇后
文徳郭皇后
明悼毛皇后
明元郭皇后
巻6 董二袁劉伝
董卓
李?
郭
袁紹
袁譚
袁尚
袁術
劉表
巻7 呂布臧洪伝
呂布
張?
陳登
臧洪
陳容
巻8 二公孫陶四張伝
公孫?
公孫度
公孫康
公孫恭
公孫淵
陶謙
張楊
張燕
張?
張魯
巻9 諸夏侯曹伝
夏侯惇
韓浩
史渙
夏侯淵
曹仁
曹純
曹洪
曹休
曹肇
曹真
曹爽
曹羲
曹訓
何晏
ケ?
丁謐
畢軌
李勝
桓範
夏侯尚
夏侯玄
巻10 荀ケ荀攸賈?伝
荀ケ
荀ツ
荀?(中国語版)
荀?(中国語版)
荀攸
賈?
巻11 袁張涼国田王?管伝
袁渙
張範
張承
涼茂
国淵
田疇
王修
?原
管寧
王烈
張?(中国語版)
胡昭
巻12 崔毛徐何?鮑司馬伝
崔?
毛?
徐奕
何?
??
鮑
司馬芝
司馬岐(中国語版)
巻13 鍾?華?王朗伝
鍾?
鍾毓
華?
王朗
王粛
孫叔然
巻14 程郭董劉?劉伝
程c
程暁
郭嘉
董昭
劉曄
?済
劉放
孫資
巻15 劉司馬梁張温賈伝
劉馥
司馬朗
梁習
張既
温恢
賈逵
巻16 任蘇杜鄭倉伝
任峻
蘇則
杜畿
杜恕
鄭渾