高垣眸
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高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月2日)は、日本の児童文学作家大衆小説作家小説家。本名・末男。別筆名・田川緑、青海、小野迪夫。
経歴
誕生から大学時代まで

広島県尾道市土堂生まれ[1][2]。先祖は備後一宮城主で[3]、生家は醤油醸造業を営んでいた[4]。1902年(明治35年)、4歳のときに父親が赤痢で死去、翌年、尾道幼稚園[注 1]に第一回生として入園する[3]。またこの年、祖母より箏曲を習う[3]。1904年(明治37年)、土堂小学校に入学、級長を務めた[3]。1906年(明治39年)の夏に屋根から落ちて頭を打撲し京都府立病院に半年ほど入院、このときに巌谷小波の『日本お伽噺』『世界お伽噺』などを読んだことが文学に興味を持つ切っ掛けとなった[4][3]

1908年(明治41年)、伯父の大阪転住に伴い、天下茶屋村小学校に転入する[3]。1910年(明治43年)、岡山県立矢掛中学校に入学、寄宿舎に入る[6]。在学中は様々な本を乱読し、野球、柔道、テニスに熱中した[7]。1915年(大正4年)、中学を卒業し、9月に合格した早稲田大学文学部英文学科に編入する[6]。同じクラスには額田六福がいた[6]。ただし大学にはあまり行かずに友人と大阪郊外で合宿暮らしをして宝塚少女歌劇に夢中になり、やがて島村抱月松井須磨子芸術座に参加して巡業に加わるようになる[6]。しかし1919年(大正8年)1月に松井須磨子が抱月の後追い自殺をしたため劇団は解散となり、東儀鉄笛の新文芸協会に参加する[8]。同年、田川緑の筆名で処女作となる「少年水滸伝」を『譚海』に発表[6]。1920年(大正9年)7月、早稲田大学を卒業する[6]
大学卒業から人気作家となるまで

大学を卒業後、新国劇沢田正二郎一座の脚本部に入る[6]。脚本部長は同郷の行友李風であった[6][1]。高垣は菊池寛『父帰る』、山本有三『嬰児殺し』、久米正雄『地蔵教由来』などの『新思潮』の作品や、ドストエフスキー『罪と罰』の上演などの新しい企画で一座を盛り立てた[6]

1922年(大正11年)、延期していた兵役のため退職し、福山歩兵第四十一聯隊に一年志願兵として入隊する[6][9]。除隊後、親戚の反対を押し切って結婚し勘当されて生活に困窮[6]、英文科の主任教授だった横山有策の世話でラスキンのエッセイなどを代訳したり、額田六福の援助を受けたりしてどうにかやり過ごす[10][6]。1923年(大正12年)、新聞記者を志し国民新聞社山路愛山の元を訪れるが教師になることを勧められる[6]。7月、青梅府立第九高等女学校に教師として赴任する[11][1]。8月、長女のひとみが生まれる[12]

1925年(大正14年)4月、『少年倶楽部』にて『龍神丸』の連載を開始[12][2]。長女の名前を採ってペンネームを高垣眸とした。『龍神丸』は読者の支持を受け、少年少女作家としての地位を確立した[13]。続いて発表された『豹(ジャガー)の眼』は、次に生まれた長男の名と暮らした青梅市から青梅マ二名義で発表[14]。同作品はのち1959年、KRT(現・TBSテレビ)「月光仮面」の後番組、日本初の本格的テレビアクションとしてテレビドラマ化された。

教職は辞し作家に専念、再び"高垣眸"名義に戻しこの後『神風八幡船』、『曼珠沙華』、『決死の将校斥候』、『荒海の虹』、『渦潮の果』、『銀蛇の窟』、『黒衣剣侠』、『科学怪奇怪人Q』、『恐怖のミイラ』など相次いで発表。童話とは異なる面白さ、破天荒なストーリーの中にも、人として選ぶ道を教えた教育者として高垣作品は当時の子供達を熱狂させた。特に1935年に発表した『快傑黒頭巾』は伊藤幾久造の挿絵とともに大評判となり、翌1936年の『まぼろし城』の二作品は戦前から戦後にかけて日活東映などで何度も映画化された。またNHK少年ドラマシリーズなどでテレビドラマにもなった[15]快傑黒頭巾発祥の地を示す記念碑(青梅市)
戦後の活動

戦時中の1943年、遠縁が専務を務めていた旭造船のある千葉県勝浦市に引っ越し同所に勤務[1]。戦後しばらくたって、同所に特攻兵器海龍」の発案者で、戦艦大和沈没時の生存者の一人、浅野卯一郎が訪ねて来た[1]。浅野は軍令部で唯一人といわれた科学技術参謀で、自身が書いた原稿を見てくれといわれた。「海野十三にネタを相当送ってるのに、丁寧な返事はくれても肝心の現金を送ってくれない」と嘆き、「この原稿を80円で買ってもらえば、自転車が買える」と言い、二男の高垣葵が隣の部屋でそれを聞いていて「ちょっと読ませてよ」と言い、その話は科学者の恋人が癩病になり、渓流に住むイワナの血と恋人の血を入れ替えるという内容であったが、葵が「こりゃ、面白いや」と言うので原稿を買った[1]。すると「もっと面白い材料がある」と、もっと規模の大きなSF小説の構想を話した。これが『凍る地球』という小説に発展し、当時発行されていた「東光少年」という雑誌に、1949年1月から1950年3月まで連載された[1][16]。共作者としてクレジットされている深山百合太郎(みやまゆりたろう)は浅野卯一郎である[1]。浅野との共同作業で新しい科学知識を習得することができた。浅野は1961年頃亡くなるが、高垣は遺作となった『燃える地球』(1981年)に、深山百合太郎と浅野卯一郎の両方を登場させていて混乱するが、深山百合太郎参謀として登場する方が浅野のモデルという[1]


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