高坂昌信
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 凡例春日 虎綱 / 高坂 昌信
春日虎綱(高坂 昌信)
時代戦国時代
生誕大永7年(1527年
死没天正6年5月7日1578年6月12日
改名春日虎綱、香坂虎綱
別名昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久
通称:源五郎、弾正
渾名:逃げ弾正[1]
戒名保雲椿公禅定門(「成慶院過去帳」)
憲徳院玄菴道忠居士
墓所明徳寺長野県長野市
恵林寺山梨県甲州市
官位弾正忠
主君武田信玄勝頼
氏族春日氏香坂氏高坂氏
父母父:春日大隅、養父:香坂宗重
兄弟熊麿、虎綱(高坂昌信)
妻正室:香坂宗重の娘
昌澄(源五郎)信達(源次郎)昌定(源三郎)
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春日 虎綱(かすが とらつな)は、戦国時代武将。高坂(香坂) 昌信(こうさか まさのぶ)の名で知られる甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。
姓名及び仮名

一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている[2]

香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている[3]。なお、『甲陽軍鑑』は海津城築城を永禄3年としているが、これは史実とは矛盾する[4]

一方、高野山成慶院『武田家過去帳』では弘治4年時点で「香坂弾正」を称していることが確認される[3]。この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している[5]

仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている[3]

名については、確実な文書上からは実名は「虎綱」であることが指摘されており[6]、春日虎綱または香坂虎綱となる。本記事においては以下、春日虎綱として記述する。
生涯
出生から香坂氏継承

甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父の大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の近習として召抱えられたという。

はじめは使番として働き、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったという[要出典]。なお、この間の『天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所所蔵文書)』は、虎綱を指すとされる「春日源助」宛で晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている[7]

武田氏による埴科郡村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人の香坂氏が武田家に出仕している[2]

その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている[5]。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する[4]


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