高千穂神社
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高千穂神社

拝殿
所在地宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井字神殿1037
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度42分23.2秒 東経131度18分8.3秒 / 北緯32.706444度 東経131.302306度 / 32.706444; 131.302306座標: 北緯32度42分23.2秒 東経131度18分8.3秒 / 北緯32.706444度 東経131.302306度 / 32.706444; 131.302306
主祭神高千穂皇神
十社大明神
社格等国史見在社論社
旧村社
別表神社
創建不明
本殿の様式五間社流造銅板葺
別名十社大明神
札所等高千穂八十八社
例祭4月16日
主な神事猪掛祭(旧暦12月3日)
笹振り神事(旧暦12月3日)
神話の高千穂夜神楽まつり(11月22-23日)
地図
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高千穂神社(たかちほじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する神社である。国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の有力な論社であるが、近代社格制度上村社にとどまった。現在は神社本庁別表神社となっている。
社名

古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称されて来たが、1871年明治4年)に「三田井神社」と改称、更に1895年(明治28年)に現社名に改称した。
祭神

主祭神は一之御殿(いちのごてん)の高千穂皇神(たかちほすめがみ)と二之御殿の十社大明神。

高千穂皇神は日本神話日向三代と称される皇祖神とその配偶神(天津彦火瓊瓊杵尊木花開耶姫命彦火火出見尊豊玉姫命彦波瀲武??草葺不合尊玉依姫命)の総称で、十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命(みけぬのみこと)とその妻子神9柱(三毛入野命の妃神である鵜目姫(うのめひめ)命と、両神の御子神である御子太郎(みこたろう)命、二郎(じろう)命、三郎(さぶろう)命、畝見(うねみ)命、照野(てるの)命、大戸(おおと)命、霊社(れいしゃ)命、浅良部(あさらべ)命)の総称とされる。

十社大明神の中心である三毛入野命は、「記紀」に浪穂を踏んで常世国に渡ったとあるが、当地の伝承では、高千穂に戻り当時一帯を荒らしていた鬼神の鬼八(きはち)を退治、当地に宮を構えたと伝える。また文治5年(1189年)3月吉日の年記を持つ当神社の縁起書『十社旭大明神記』には、神武天皇の皇子「正市伊」が「きはちふし」という鬼を退治し、その後正市伊とその子孫等が十社大明神として祀られたという異伝を載せている。更に、正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝もあり[1]、また、『平家物語』巻8緒環段では、「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」の正体は「大蛇」で豊後緒方氏の祖神であるとしている[2]

また、鵜目姫命は祖母岳明神の娘神で、鬼八に捕らわれていたところを三毛入野命に助け出され、後にその妃神になったという。
歴史

高千穂は日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地と伝えられるが、天孫降臨伝承と在地固有の信仰が融合し、更に熊野修験も加わるなど複雑な信仰を包含する。また、?觸神社は古来より当神社の春祭りに対して秋祭りを行うなど、当神社と密接な関係を持つものでもあった。

社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。当神社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」であるとすれば朝廷からの神階授与があったことになるが、『延喜式神名帳』の記載はない。また、天慶年間(938-47年)に豊後国から大神惟基の長子の政次(高知尾太郎政次)が当地に入り高知尾(高千穂)氏を興したが[3]、社伝によると同氏は当神社を高千穂18郷にわたる88社(高千穂八十八社)の総社と位置づけて崇めたといい、以後も当神社に深く関わるようになったと見られている。

中世になると土持氏の勢力が入り、建久8年(1197年)の『建久図田帳』では妻万(つま)宮(現西都市都萬神社)の社領中に「高知尾社八町」、地頭土持宣綱とあって、当神社は妻万宮の管轄下にあったようであるが、同じ頃高千穂氏によって紀州熊野信仰がもたらされたようで、その後高知尾庄と呼ばれるようになった当神社の社領は、建長6年(1254年)4月26日の関東下知状案[4]を見ると熊野山領とされており、地頭職には高知尾政重が就き[5]鎌倉時代中期までは熊野山領に組み込まれたようである。また社伝によれば、源頼朝が天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して多くの神宝を奉納、この時重忠によって現存する重要文化財の鉄製鋳造狛犬1対が献納され、境内にある「秩父杉」(高千穂町指定天然記念物)も重忠自らが植えたものといい、文永・弘安の役には敵国降伏祈願のために勅使が差遣されたという。鎌倉時代中頃からは高知尾庄に北条氏被官の安東氏の勢力が進出して来る一方で、熊野別当の後胤を称す浦上氏預所職を務めるなど当神社を含めた一帯の支配を強めるようになった[6]。また、鎌倉時代末から高知尾氏に代わり島津氏が地頭となる一方、高知尾氏も三田井氏を称して三田井郷の地頭職を所持するなど、この頃から社領や神事を巡る相論が頻出しだし、南北朝時代にはこれに加えて南朝方に与する阿蘇氏の勢力も進出、社伝によれば征西将軍懐良親王による祈願のための神宝が奉納されたというが、以後阿蘇氏支配の下、「高千穂郷総鎮守」[7]として崇められた。

近世には寛永年間(1624-44年)に延岡藩主有馬氏から200石の寄進を受け[8]元禄10年(1697年)に同藩主三浦明敬による親拝[9]内藤氏も例祭に代参を差遣し神事料を寄進するなど、歴代延岡藩主から崇敬を受けた。

1871年明治4年)7月に延岡県県社、11月に美々津県の県社とされたが、宮崎県に改組されると1873年(明治6年)に村社とされた。戦後は神社本庁に参加し、1971年昭和46年)に別表神社となった。
神階

国史見在社であれば、承和10年(843年)9月甲辰(19日)に都濃皇神とともに無位から従五位下を授けられ(『続日本紀』)、天安2年(858年)10月22日に同じく都農神とともに従五位上から従四位上に昇った(『日本三代実録』)[10]
祭祀
神事ほぼ毎日観光用の夜神楽が行われる神楽殿神楽殿の夜神楽の様子

例祭(4月16日) - 当年の豊作等を祈る祭りで、上述のようにこれに対して?触神社では秋に感謝祭を行う。また、お旅所である天真名井まで神輿の巡幸があり、そこで神楽が奉納される。

神話の高千穂夜神楽まつり(11月22-23日) - 夜を徹して重要無形民俗文化財に指定されている高千穂の夜神楽全33番が奉納される。ちなみに境内の神楽殿では、年間を通じて観光用に33番の中から「手力雄(たぢからお)」・「鈿女(うずめ)」・「戸取(ととり)」・「御神体(ごしんたい)」の4番が実演されている。

猪掛(ししかけ)祭(旧暦12月3日) - 鬼神鬼八の慰霊のために始められたもので、かつては16歳になる生娘を生贄として捧げていたが、天正年間(1573-93年)に三田井氏の家臣甲斐宗摂がこれを悪習と嘆き、高城山巻狩を行って獲た16頭の猪(しし)を代わりに捧げ、以後「鬼餌の狩」と称する狩りで獲た猪を捧げるようになったと伝える。


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