高倉照幸
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高倉 照幸1955年撮影
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県北九州市
生年月日 (1934-12-08) 1934年12月8日
没年月日 (2018-02-12) 2018年2月12日(83歳没)
身長
体重172 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り1953年
初出場1953年3月24日
最終出場1970年10月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


熊本県立熊本商業高等学校

西鉄ライオンズ (1953 - 1966)

読売ジャイアンツ (1967 - 1968)

アトムズ
ヤクルトアトムズ
(1969 - 1970)

コーチ歴


西鉄ライオンズ (1966)

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高倉 照幸(たかくら てるゆき、1934年12月8日 - 2018年2月12日)は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手外野手)・解説者評論家
経歴

福岡県北九州市で生まれ、戦時中に熊本県熊本市へ疎開[1]。父が鉄工所を経営していたこともあり、高倉は熊本工業高校を志望したが、願書を出しに行くも2時間前に締め切られていた。高倉は落胆もせず、「それなら…」というわけで、熊本商業高校に切り替えてしまった[2]

1951年中堅手として春の選抜に出場。1回戦で浜田高を降すが、準々決勝となった2回戦では、この大会に準優勝した鳴尾高中田昌宏投手に抑えられ敗退。しかしこの大会唯一の本塁打を放ち注目される[3]

1952年はエースとして活躍するが甲子園には届かなかった。高校同期に坂本盛明がいる。卒業時に巨人阪神西鉄の勧誘を受けた。

1953年に地元の西鉄ライオンズに入団[4]

1954年には胸部疾患で欠場した塚本悦郎に替わって、強肩俊足を活かしてレギュラー中堅手となり、球団史上初のリーグ優勝に貢献。強肩で同期の豊田泰光からは「バカ肩」と評価されている。当時毎日エースであった荒巻淳を打ち崩したことをきっかけにサウスポーを得意とし、左殺しとも呼ばれた[5]。同年の中日との日本シリーズでは、前半5試合に中堅手として先発するが18打数4安打に終わった。

1955年には33盗塁の記録を残す。

1956年には35盗塁とチーム最多の数字を残している。

1957年からは1番打者に定着し、豊田泰光中西太大下弘関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれた。稲尾和久が入団した1956年からは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の下で築き上げた。

1958年の巨人との日本シリーズは26打数10安打3打点と活躍、最終第7戦では2回に同点適時打を放ち3年連続日本一に貢献。

1959年にはリーグ5位の打率.304で初めての3割打者となり、ベストナイン外野手)に選出される。

1960年はシーズン中盤に故障欠場するが復活。

1961年にはリーグ7位の打率.301を記録。

1962年中西太選手兼任監督になるとキャプテンに任命され、以後はチーム内外からキャップとのニックネームで親しまれた[6]

1963年には当時の日本プロ野球タイ記録である6本の先頭打者本塁打を放つなど、通算でも16本記録しており、従来の1番打者のイメージを変えた打者でもあった[7]


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