高倉天皇
高倉天皇像
(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)
第80代天皇
在位期間
1168年4月9日 - 1180年3月18日
仁安3年2月19日 - 治承4年2月21日
即位礼1168年4月29日(仁安3年3月20日)
大嘗祭1168年12月20日(仁安3年11月22日)
元号仁安
嘉応
承安
安元
治承
時代平安時代
先代六条天皇
次代安徳天皇
誕生1161年9月23日(応保元年9月3日)
八条河原口盛国宅
崩御1181年1月30日(治承5年1月14日)(21歳没)
六波羅池殿
大喪儀1181年1月30日(治承5年1月14日)
陵所後清閑寺陵
追号高倉院
(高倉天皇)
諱憲仁
元服1171年2月9日(嘉応3年1月3日)
父親後白河天皇
母親平滋子
中宮平徳子(建礼門院)
子女安徳天皇・後鳥羽天皇ほか
皇居閑院・五条東洞院殿など
テンプレートを表示
高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日〈応保元年9月3日〉- 1181年1月30日〈治承5年1月14日〉)は、第80代天皇(在位: 1168年4月9日〈仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉)。諱は憲仁(のりひと)。
後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇・後鳥羽天皇らの父。 母・平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹であり、政界の実力者・清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、まだ皇子のなかった二条天皇の後継に擁立する動きがあり、誕生直後の9月15日、叔父の平時忠と清盛の弟・平教盛は二条天皇により解官されている。この当時、滋子は身分が低かったため、長寛元年(1163年)に清盛の娘で近衛基実の妻である平盛子の猶子となっているなど、早くから平家と密接な関係に置かれていた[1]。 永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)の3歳の年長であるにもかかわらず、仁安元年(1166年)10月10日、皇太子に立てられた。2年後の仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇をわずか5歳(満3歳)で退位させ、自身が8歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷いた。 承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘(つまり従姉に当たる)平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える。治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、同年12月15日には皇子を早々に皇太子とした。 翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、平清盛の孫にあたる安徳天皇に譲位し太上天皇となり、院政を開始するが間もなく病に倒れ崩御した。宝算21。 後白河院と平家の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平家一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説や、後白河院がこれを嫌って自分の皇子(天皇の異母弟)を天皇の養子にして譲位させようとしていたとする説[注 1]も出ている[注 2]。 高倉天皇の系譜
略歴
系譜
16. 第72代 白河天皇
8. 第73代 堀河天皇
17. 藤原賢子
4. 第74代 鳥羽天皇
18. 藤原実季(=20)
9. 藤原苡子
19. 藤原睦子
2. 第77代 後白河天皇
20. 藤原実季(=18)
10. 藤原公実
21. 藤原睦子(=19)
5. 藤原璋子
22. 藤原隆方
11. 藤原光子
1. 第80代 高倉天皇
24. 平経方
12. 平知信
25. 藤原雅信女
6. 平時信
3. 平滋子
28. 藤原顕隆
14. 藤原顕頼
29. 藤原悦子