髑髏杯
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『マナセス年代記(ブルガリア語版、ドイツ語版)』[1]の挿絵[2]第一次ブルガリア帝国のハーン、クルム(左端)のもとに差し出されようとしているニケフォロス1世の髑髏杯(右端)。

髑髏杯(どくろはい、英語: skull cup[3])は、ヒト頭蓋骨髑髏)を材料として製作されたである。
ヨーロッパ

紀元前8世紀?紀元前3世紀にかけて現在のウクライナに割拠した遊牧民族スキタイの習俗に「頭蓋骨は近親者か最も憎い敵に限り、髑髏を眉の下で切り牛の生皮を貼って杯として用いる」[4]とあり、これが最も古い髑髏杯の記録だと思われる。

大プリニウスは『博物誌』に、ドニエプル川の北方部族が髑髏杯を用いる事や、夜間に泉から汲んだ水を髑髏に入れて患者に飲ませるというてんかんの治療法を記している。

567年、ランゴバルド王国アルボイーノ王はパンノニアのゲピド族を虐殺し、ゲピド王クニムンド(英語版)の頭蓋骨で杯を作って祝った。またクニムンドの娘ロザムンダ(英語版)(Rosmunda)を妻としてその髑髏杯を与えた。

811年プリスカの戦いで戦死した東ローマ帝国皇帝ニケフォロス1世は、その頭蓋骨を髑髏杯にされて第一次ブルガリア帝国の皇帝クルムに献上された。

971年キエフ大公スヴャトスラフ1世(在位:945年 - 972年)はブルガリアに侵攻して大打撃をあたえ、その地に居座ろうとした。しかし、東ローマ帝国に敗北して、キエフに撤退中ペチェネグの襲撃を受け、スヴァトスラフ1世は戦死した。この時ペチェネグの首長クリャはスヴァトスラフ1世の頭蓋骨を盃にした[5]
北欧神話

北欧神話の『ヴェルンドの歌』に登場するヴェルンドは、自分を捕らえたうえに膝の腱を切ったスウェーデン王ニーズズへの復讐として、王の2人の息子を殺すとその頭蓋骨を銀で葺いて杯を作り、それと知らない王に贈ったという。
中央ユーラシア・中東

紀元1世紀のローマの地理学者ポンポニウス・メラ(英語版)の『世界地理』によると、「イッセドネス人は親の葬儀で喜びを表し、集まって祝祭を催す。そして故人の遺体を引き裂いて家畜の胎児の挽き肉と混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい、食べつくす。頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、杯に使う。これらの行為はイッセドネス人における最大の親孝行である。」[6]

紀元前2世紀モンゴル高原に割拠した遊牧国家匈奴老上単于は、隣国(敦煌付近)である月氏の王を討ち取り、その頭蓋骨を盃にした。以後、この髑髏杯は代々受け継がれ大事な時に使用された。[7]

516年高車王の弥俄突(在位:508年 - 516年)は柔然可汗醜奴(在位:508年 - 520年)と戦い敗北した。醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いでこれを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って盃とした。[8]

1510年サファヴィー朝シャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)はシャイバーニー朝ムハンマド・シャイバーニー・ハーン(在位:1500年 - 1510年)を討ち取り、その頭蓋骨に金箔を塗って盃にした。
インド


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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