髑髏杯(どくろはい、英語: skull cup[3])は、ヒトの頭蓋骨(髑髏)を材料として製作された盃である。 紀元前8世紀?紀元前3世紀にかけて現在のウクライナに割拠した遊牧民族スキタイの習俗に「頭蓋骨は近親者か最も憎い敵に限り、髑髏を眉の下で切り牛の生皮を貼って杯として用いる」[4]とあり、これが最も古い髑髏杯の記録だと思われる。 大プリニウスは『博物誌』に、ドニエプル川の北方部族が髑髏杯を用いる事や、夜間に泉から汲んだ水を髑髏に入れて患者に飲ませるというてんかんの治療法を記している。
ヨーロッパ
811年、プリスカの戦いで戦死した東ローマ帝国皇帝ニケフォロス1世は、その頭蓋骨を髑髏杯にされて第一次ブルガリア帝国の皇帝クルムに献上された。
971年、キエフ大公のスヴャトスラフ1世(在位:945年 - 972年)はブルガリアに侵攻して大打撃をあたえ、その地に居座ろうとした。しかし、東ローマ帝国に敗北して、キエフに撤退中ペチェネグの襲撃を受け、スヴァトスラフ1世は戦死した。この時ペチェネグの首長クリャはスヴァトスラフ1世の頭蓋骨を盃にした[5]。 北欧神話の『ヴェルンドの歌』に登場するヴェルンドは、自分を捕らえたうえに膝の腱を切ったスウェーデン王ニーズズへの復讐として、王の2人の息子を殺すとその頭蓋骨を銀で葺いて杯を作り、それと知らない王に贈ったという。 紀元1世紀のローマの地理学者ポンポニウス・メラ
北欧神話
中央ユーラシア・中東
紀元前2世紀、モンゴル高原に割拠した遊牧国家匈奴の老上単于は、隣国(敦煌付近)である月氏の王を討ち取り、その頭蓋骨を盃にした。以後、この髑髏杯は代々受け継がれ大事な時に使用された。[7]
516年、高車王の弥俄突(在位:508年 - 516年)は柔然可汗の醜奴(在位:508年 - 520年)と戦い敗北した。醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いでこれを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って盃とした。[8]
1510年、サファヴィー朝のシャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)はシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーン(在位:1500年 - 1510年)を討ち取り、その頭蓋骨に金箔を塗って盃にした。 インドのヴェーターラ(屍鬼)信仰では髑髏杯に血を注いで捧げ物とする。11世紀にインドの詩人ソーマデーヴァに依って著された『屍鬼二十五話』にも髑髏杯で血を飲む婆羅門鬼の話が含まれている。 『戦国策』によれば、趙無恤がその敵晋の智瑶の頭部を盃にしたという。 元の呉元甫も髑髏杯を常用したという。 天正二年(1574年)1月1日、織田信長が、前年討ち取った浅井久政・長政及び朝倉義景の髑髏を髑髏杯にした逸話はあるが、実際は漆を塗ったものを馬廻衆との宴に披露したと『信長公記』にあり、近代では髑髏杯にして信長が酒を飲んだというのは作り話とされる。NHKの大河ドラマ『功名が辻』で使われた3人の黄金の髑髏杯が掛川城に展示してある。 『玉山遺稿』によれば、江戸時代の漢詩人高野蘭亭は、鎌倉で大館次郎の墓をあばき、髑髏杯を製したという。 徳川光圀は髑髏杯を所有していたという。これは少年時代に刑場からたずさえてきた罪人の首級であるとも、某忠臣の首級であるともいう。 今昔物語集に、天竺では釈迦を脅す天魔の2姉妹が髑髏杯を持っていると綴られている。
インド
中国
チベット仏教・ヒンドゥー教カパーラ
日本
参考資料
松平千秋訳『世界古典文学全集 10 ヘロドトス』(筑摩書房、1988年、ISBN 4480203109)
『漢書』(匈奴伝)
『魏書』(帝紀第二、列伝第九十一 蠕蠕)
『北史』(列伝第八十六 蠕蠕)
護雅夫・岡田英弘『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』(山川出版社、1996年 ISBN 4634440407)
小松久男編『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
飯尾都人『ディオドロス 神代地誌』(龍溪書舎、1999年、ISBN 4844784722)
『戦国策』
『信長公記』
『 浅井三代記
『玉山遺稿』
『ヴェルンドの歌』
⇒イギリスで発見された世界最古の「髑髏杯(どくろはい)」、食人の形跡も(GIGAZINE、2011年2月18日)2013年2月13日閲覧。
脚注^ 元はコンスタンティノス・マナセス(ギリシア語版、英語版)により12世紀に記された。
^ バチカン図書館が保有する14世紀のものとされる写本より。