骨相学
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1895年ウェブスター教養辞典に掲載された骨相学によるの地図。
ガルによれば、脳は、色、 音、言語、名誉、友情、芸術、哲学、盗み、殺人、謙虚、高慢、社交などといった精神活動に対応した27 個の〈器官〉の集まりであるとされた。

骨相学(こっそうがく、: Phrenologie)とは、は精神活動に対応する複数の器官の集合体であり、その器官・機能の差が頭蓋の大きさ・形状に現れると主張する学説である。19世紀に隆盛を誇ったが、神経解剖学の発展によって、20世紀以降では疑似科学とされ、否定されている。頭蓋測定学とも呼ばれる。
骨相学の誕生とその父ガルフランツ・ヨーゼフ・ガル

ウィーン大学卒業後、ウィーンで開業していたドイツ人医師フランツ・ヨーゼフ・ガル(1758-1828)は、脳の解剖学神経生理学の研究につとめ、脳髄が繊維のシステムであること、錐体路系とその交差の存在、そして動眼・三叉・外旋神経など各神経の起始点を突き止めるなど、神経解剖学に大きな功績を残した人物であった。

ガルはまたイタリア解剖学者モルガーニの著書『疾病の所在と原因について』(1761年)を参考にして、幼児や成人の正常脳、各種の病気の人の脳、天才人の脳、動物の脳などを比較研究することで、独自の〈器官学Organologie〉を編み上げていき、1796年から私的な講義を開き、これを講義した。
ガルの器官学

ガルの「器官学」によれば、脳は「言語、名誉、友情、芸術哲学、盗み、殺人、謙虚、高慢、社交」などといった精神活動に対応した27個の「器官」の集まりとされ、各器官の働きの個人差が頭蓋の大きさや形状に現れるのだとされた。これはもっとも初期の脳機能局在論であり、また近代骨相学のはじまりである。

ガルの主張によれば、たとえば「破壊官」や「粘着官」といった器官が大きいものは、執拗で残忍な傾向が強い。

現在から見たガルの誤りは、精神的気質が物理的に計測可能な頭蓋骨形状にそのまま現れると考えたこと、さらに、頭蓋骨を外から視診・触診すればその人の性格や素質を知ることができるという極端な主張を行ったことである。
ガルの迫害と追放

1802年、ガルの学説はあまりに唯物論的であるとされ、さらにキリスト教に反するとされて、ガルはオーストリア帝国によってウィーンから追放される。しかしガルはヨーロッパ各地で講演を続けた。

1807年にはパリに移り、ここで解剖学者ヨハン・シュプルツハイム(スブルツハイム)(英語版)と連名で『神経系、とくに脳の解剖学と生理学』全4巻 (1810年 - 1819年刊行) 、『脳とその部位の機能』全6巻(1822年 - 1825年刊行)を発表する。
「骨相学」の名の由来

ガルは自分の知識体系を「頭蓋の研究」(Schadellehre)と呼んでいた[1]。(「脳蓋観察論」(cranioscopie)と呼んでいたとも[要出典])英語では最初は「頭蓋学」(craniology クラニオロジー)と呼ばれたが、1815年には「骨相学」(phrenology フレノロジー)と言われるようになった[1]

骨相学(phrenology)という名称は、トーマス・フォースター(英語版)が1815年にガルの学説をイギリスへ紹介する際に名づけたもので、1818年にシュプルツハイムがこの名称を取り入れて定着した。

これはギリシア語の φρ?ν(「心」を意味する)に由来する phr?n と、同じくギリシア語の λ?γο?(「知識」を意味する)に由来する logos(ロゴス)からなる語である。
骨相学の隆盛

骨相学は「19世紀で最も人気のあった大衆科学」であると言われてきた[2]。大衆的な人気を博した理由は、精神頭蓋骨の対応という考え方が直感的に理解しやすかったことに加えて、頭蓋骨の形という容易に計測できるものから個人の気質がわかるという主張により、専門家でなくても骨相学的性格判断を行うことができたためである。骨相学師(practitioner)たちが海辺の行楽地など各地に出没した[1]。当時の名士たちはこぞって肖像画の額を広く描かせて、思慮深さをアピールする風潮も生まれたという。

シュプルツハイムは、1820年代の英国での骨相学の普及のために活動した[1]。彼は、エディンバラロンドンに骨相学を伝えた[1]


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