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シベリア出兵における大日本帝国陸軍騎兵連隊現代における騎兵の例(スウェーデンの衛兵)
騎兵(きへい、英: cavalry, trooper)は、兵種の一つで、動物、主に馬に騎乗して戦闘行動を取る兵士である。最初はロバが使用されていたが、後に馬が主流になった[1]。最古の騎兵は動物が曳行する戦車に乗った兵士であった[2]が、後に動物に跨る騎兵に移行していった[3]。
騎兵は相対的に高い機動力・攻撃力を誇り、作戦の幅を広げ、偵察、伝令、警戒など後方支援でも活躍した。また、軽騎兵・重騎兵と分類されることもあり、前者は機動力を、後者は攻撃力及び防御力を重視している。狭義には乗馬したまま戦闘するものだけを騎兵と呼び、下馬して戦闘するものを乗馬歩兵 (mounted infantry) と呼んで区別することもある。
現代では騎兵の任務を引き継いで装甲車やヘリコプターに搭乗する機動性に富んだ部隊も「騎兵」と呼ぶことがある。
歴史上の騎兵
古代古代エジプトの戦車。イッソスの戦い
有史に残る最古の騎兵は、紀元前2500年、メソポタミアのシュメール絵に描かれた戦車部隊である。最初は馬の存在が知られておらず、ロバが使用されていた[4]。馬にまたがる騎兵への移行は、新アッシリアのレリーフに残されており、アッシュールナツィルパル2世の治世が最初である。裸馬に御者が盾を持ち、弓兵とまたがるもので速度は遅く、馬の腎臓を傷めた[3]。
近年、ウクライナのデレイフカ遺跡から出土した馬の頭骨のうち、下顎骨の第二前臼歯が磨耗しているものが数体見つかっている。これは乗用馬に使用し第二前臼歯と接し摩耗痕を残す馬具であるハミを咬ませていた事を窺わせるもので、ハミ留め具(鏡板)とも考えられている有孔の鹿角製品とともに出土した。デレイフカ遺跡の馬遺体は騎乗の技術は紀元前4000年に既に確立されていることを窺わせるものであるとする仮説があり議論を呼んだが、その後放射性炭素年代測定により馬遺体の年代が紀元前8世紀以降のスキタイ期であることが指摘され、発表者は現在、騎乗の推定開始年代を1000年以上下げている。尚、乗用馬以外の駄馬や農耕馬など馬を引いて歩く時にはハミは必要にならない。
古代ギリシアでは歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。近年の研究では既に地中海世界では大型の鞍が発明されており、旧説で言われているほどには騎乗は困難でなかったとは言われるが、鐙(あぶみ)が発明されるまでは馬上で武器を扱うのは困難であり、幼い頃からの鍛練が必要な特殊技能であった。中国やイラク、シリア、ギリシャなどの農耕地域では馬を育てる事に費用が嵩むため、所有出来るのは金持ちや有力者に限られていたようである。牧畜を行って暮らしていたマケドニア人の王ピリッポス2世は、マケドニア部族の子弟を集めた重騎兵部隊(ヘタイロイ)や服属させた周辺国から徴募した軽騎兵部隊を組織した。ピリッポス2世の子のアレクサンドロス大王は徴発されたファランクスと騎兵隊による鉄床戦術でアケメネス朝ペルシャを滅ぼし広大な領域を征服したが、スキタイの騎兵には苦戦を強いられ撤退を余儀無くさせられた。
アジアでは、紀元前20世紀頃から中国のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。
匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。
共和政ローマはカルタゴのハンニバル率いる各国傭兵隊に、騎兵を活用した包囲戦術でカンナエの戦いを始めとする戦いにおいて手痛い敗北を喫した。ギリシャの諸ポリスと同じく市民兵を中核とするローマは歩兵だけでなく騎兵部隊もまた自国民から召集していた(エクイテス)が、カルタゴ側のイベリア騎兵やヌミディア騎兵に比べて質量ともに問題があり、カンナエの戦いでは同盟騎兵を合わせてもカルタゴ軍の半数程度しか集められなかった。その後、ガイウス・マリウスの軍制改革で創設された補助軍(アウクシリア)を通じて属州内から騎兵を募る様になった。とはいえローマの戦術は基本的に歩兵中心であり、騎兵は敵騎兵による歩兵の包囲を防いだり、歩兵が勝利を得た後の追撃戦に用いられる事が殆どだった。
中国では春秋時代までは戦車が軍の主力であった。戦術の発達した戦国時代に入ると、機動力に優れ用い易い騎兵が重要視されるようになった。兵法書の『呉子』でも騎兵の重要性が説かれている。趙の武霊王が反対意見を押し切って胡服騎射(騎馬遊牧民の服を着用し、騎射を行う訓練方法)を取り入れたことはこの時代の軍制変革を象徴する出来事である。しかし中原地域では馬の養殖に必要な草原が乏しいゆえ騎兵の育成費用が高く、しばらくは弩や長柄兵器を用いた歩兵が軍の主力を占め続けた。弩は普通の弓より長射程・高威力であり、騎兵に対しても有効だった。前漢の武帝の時代以降になると、定住しない匈奴の騎兵に対抗するため本格的な騎兵部隊が編制されるようになり、匈奴を服属させ西域を支配した。