駒澤大学硬式野球部
[Wikipedia|▼Menu]

駒澤大学 硬式野球部駒澤大学時代の今永昇太
加盟団体東都大学野球連盟
本拠地東京都世田谷区上祖師谷2-8-30
創部1947年
監督香田誉士史
公式サイト ⇒公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績1部リーグ優勝 27回
全日本大学野球選手権大会
出場回数14回
最高成績優勝6回
明治神宮野球大会
出場回数14回
最高成績優勝 5回
テンプレートを表示

駒澤大学 硬式野球部(こまざわだいがく こうしきやきゅうぶ、: Komazawa University Baseball Club)は、駒澤大学野球チーム。東都大学野球連盟所属。
創部

1947年昭和22年)に創部。
歴史

1947年(昭和22年)の創部から2年後の1949年(昭和24年)春の入れ替え戦で国学院大を下し、同49年秋に初の1部昇格を果たした。この時代、宮武三郎慶応大OB)がコーチを務めていた。同49年秋から5季連続で4位に収まり専修大日本大中央大の3強の壁を破れずにいた。その後も1部に留まっていたが、黒柳勝至(通算11勝26敗、56年卒)と久保田治(通算10勝13敗。法大を中退し入部、55年中退)両投手らが在籍した時代は3位を2度(52春・54春)、4位を1度(55春)記録した以外、チームは例年最下位になる時期が続いた(52秋・53春秋・54秋・55秋)。

1956年(昭和31年)春、小林昭仁専修大OB)が監督就任。翌翌58年春にチーム初の2位になると、翌59年秋にも2度目の2位を記録するが、それぞれ中央大・日本大に優勝をさらわれた。この間、西室隆明(通算14勝28敗、58年卒)や橋本時男(通算25勝〈駒大歴代2位〉22敗、60年卒)らの投手陣や、打撃陣では2度首位打者に輝いた太田誠(59年卒、のち駒大監督)らが気を吐いた。

1962年(昭和37年)春、最上級生の泉邦雄投手(通算19勝18敗、63年卒)や三沢今朝治(63年卒)、1年下の松村正晴らの活躍でリーグ戦初優勝を遂げ、翌1963年(昭和38年)春も優勝。続く全日本大学野球選手権大会は、62年の第11回全日本大学選手権準決勝で関西大を3-2(延長17回)、決勝で法政大に3-5で敗退。翌63年の第12回全日本大学選手権準決勝で中京大を5-0、決勝で慶応大に0-7で敗退。山崎武昭投手の法政、渡辺泰輔投手の慶応にそれぞれ敗れ2年連続の準優勝に終わった。翌1964年(昭和39年)春も、盛田昌彦投手(通算20勝15敗、66年卒。のち拓銀)と新宅洋志捕手の3年生バッテリーや2年生大下剛史らを擁してリーグ優勝し春季リーグ戦3連覇を達成。続く第13回全日本大学選手権準決勝で関西学院大を1-0、決勝で江尻亮宮本洋二郎両投手擁する早稲田大を2-0で破り悲願の大学日本一となる。この時代は、盛田昌彦と1年下の伊藤久敏(通算14勝7敗、67年卒)と土屋紘(通算11勝9敗、67年卒)らが投手陣を支えた。

1968年(昭和43年)春、エース野村収(通算21勝15敗、69年卒)と3年大矢明彦のバッテリーや3年内田順三らの打撃陣でリーグ優勝。続く第17回全日本大学選手権準決勝で龍谷大を8-7で下したものの、決勝で田淵幸一ら"法政三羽烏" 擁する法政大に打ち込まれ3-12で敗れ、準優勝に留まった。64年から始まる東都大学勢の選手権5連覇が阻まれた。

1960年代前半から半ばにかけて、1970年代の合間合間で中央大と東都の覇を競った。この間、日本大や専修大はもとより強く、芝浦工大亜細亜大、70年代には東洋大が躍進しはじめたが、この70年代はリーグ優勝8回、2連覇を2回、3連覇を1回成し遂げる無双ぶりであった。小林昭仁の監督退任を受け1971年(昭和46年)春から監督を務めたOBの太田誠の下、法政のほか合宿所が近隣にある明治大、早稲田大、東海大大阪商業大などと全国大会の覇を競う常連校だった。

1972年(昭和47年)秋、3年赤津宏二投手(通算17勝10敗、74年卒)、3年栗橋茂や1年中畑清らの打撃陣を擁し第3回明治神宮野球大会1回戦で札幌大を12-6、2回戦の法政大に2-4で敗退。翌1973年(昭和48年)秋、第4回明治神宮野球大会準決勝で神奈川大を5-1、決勝で2年田尾安志投手擁する同志社大を6-3で下し優勝。翌1974年(昭和49年)、山本泰之(通算18勝9敗)・水谷啓昭(通算17勝7敗)両投手や中畑清ら3年生の投打を擁し、68年以来6年ぶりの出場となる第23回全日本大学選手権準決勝で近畿大を1-0(延長13回)、決勝で早稲田大に2-3で敗れ準優勝。翌1975年(昭和50年)、4年山本泰之・水谷啓昭や3年森繁和(通算18勝9敗)らの投手陣、4年中畑清や1年石毛宏典らの打撃陣を擁し、続く第24回全日本大学選手権準決勝で丸山清光と名取和彦両投手擁する明治大を3-2、決勝で3年斉藤明雄投手擁する大阪商業大を1-0(延長14回)で下し優勝。同年秋、第6回明治神宮野球大会準決勝で2年江川卓投手らの法政を1-0、決勝で明治に1-4で敗れ準優勝。翌1976年(昭和51年)、森繁和と大宮龍男の4年生バッテリー擁するも、第25回全日本大学選手権で、駒大は東海大を完封で下しながら準決勝で大阪商業大に敗退。当時採用されていた敗者復活戦でも駒大は法政共々優勝した東海大に完封され敗退。同年秋、第7回明治神宮野球大会準決勝で優勝した法政に4-6で敗退。翌1977年(昭和52年)、尾藤福繁投手や3年生石毛宏典らを擁して、第26回全日本大学選手権準決勝で初出場の創価大を2-1で下し、決勝で4年遠藤一彦投手や1年原辰徳擁する東海大を4-3(延長10回)で下し優勝。同年秋、第8回明治神宮野球大会準決勝で江川法政に敗れ準優勝した東海大に7-9で敗退。

この70年代は、栗橋茂、木下富雄、中畑清・平田薫二宮至らの "駒大三羽烏"、赤津宏二・水谷啓昭・山本泰之・森繁和・尾藤福繁・高久孝(通算17勝13敗、80年度卒)らの投手陣、吉田秀雄小川良一・大宮龍男・長村裕之(80年度卒)らの捕手陣、山本文博渡部一治、石毛宏典らが名を連ねた。

1980年代に入ってなお、古豪専大、地味ながら勝負強い東洋大や亜大、80年代半ばから躍進した青山学院大などと接戦を繰り広げつつ、2連覇を2回、秋季リーグ戦4連覇、リーグ優勝8回を数えるなどリーグの盟主の座にあり、法政、明治、東海大などと変わらず全国大会の覇を競う常連だった。1980年(昭和55年)、主戦高久孝らを擁し、第29回全日本大学選手権準決勝で近畿大を11-0、決勝で3年平田勝男らの明治大に1-8で敗れ準優勝。1983年(昭和58年)、4年鍋島博(通算17勝7敗)と3年河野博文(通算15勝3敗)の投手陣を擁し、第32回全日本大学選手権準決勝で4年高野光投手の東海大を3-0、決勝で近畿大を5-1で下し優勝。同年秋、第14回明治神宮野球大会準決勝で同志社を4-0、決勝で東海大に1-3で敗れ準優勝。翌1984年(昭和59年)秋、第15回明治神宮野球大会初戦2回戦で関東学院大を4-3(延長10回)、準決勝で大阪学院大を9-4、決勝で佐々木修投手の近畿大呉工学部を3-1で下し優勝。翌1985年(昭和60年)秋、4年白井宏範(通算11勝5敗)や3年新谷博(通算15勝6敗)の投手陣や1年野村謙二郎らを擁するも、第16回明治神宮野球大会初戦2回戦で準優勝した3年西崎幸広投手擁する愛知工業大に2-5で敗退。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:68 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef