駐日英国大使館
British Embassy Tokyo
所在地 日本
住所東京都千代田区一番町1
座標座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分12.7秒 東経139度44分39.4秒 / 北緯35.686861度 東経139.744278度 / 35.686861; 139.744278
駐日英国大使館(ちゅうにちえいこくたいしかん、英語: British Embassy Tokyo)は、イギリス政府が日本に設置している大使館である。所在地は東京都千代田区一番町。 東京都千代田区一番町の駐日本国英国大使館は、日本におけるイギリス政府の主要代表機関であり、在大阪英国総領事館(大阪府大阪市中央区)と協力して、日本でのイギリス情報提供のために活動している。 日英修好通商条約締結の翌年にあたる1859年7月6日(安政6年6月7日)、ラザフォード・オールコックにより高輪東禅寺に英国総領事館が開設された。オールコックの公使昇進により、領事館は公使館となった。しかしながら、2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。その後江戸幕府は、英国を含む五カ国に対して建設費の1割を年賃貸料とすることで公使館を品川御殿山に建設する約束を交わした。オールコックはスケッチ案[1]を幕府作事方に提示し[2]、普請は順調に進んだが、完成直前の1863年1月31日(文久2年12月24日)に高杉晋作らによる焼き討ちにあってしまった(英国公使館焼き討ち事件)。2代目公使ハリー・パークスは泉岳寺前に仮公使館を残しながら、横浜に公使館を移すことにし、1866年になって横浜外国人居留地の技師のブリジェンスに横浜仮公使館と領事館の設計を依頼した。1867年に、英国政府は極東在外公館施設建物の本格的営繕のため工兵ウィリアム・クロスマン
業務
歴史東禅寺。1860年代3代広重画「高輪イギリス館」1868年高輪東禅寺にある「最初のイギリス公使館跡」の石標東京の英国公使館。1888年ボイス設計の赤レンガ作りの英国大使館。『東京府名勝図絵(1912年)』より。国会図書館「近代デジタルライブラリー」
明治維新後、多くの大名屋敷が空になった。このため、1869年1月(明治元年11月または12月)頃、パークスは公使館を三田上野沼田藩の下屋敷跡に移した[3]。さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて[4]、江戸城近くの複数の用地を物色した結果、1872年5月(明治5年)、七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪(1884年(明治17年)の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなった[5]が、賃料が低い水準に抑えられたことが両国間の問題となっていく(後述)。