駆逐艦(くちくかん、英語: destroyer)は、多様な作戦任務につく重装備・高速の水上戦闘艦。当初は主力艦を護衛して敵の水雷艇を駆逐するための大型水雷艇として登場したが、まもなく水雷艇の代わりにそれ自体が敵艦隊への水雷襲撃を行うようになり、また潜水艦に対する攻撃や偵察・哨戒、船団護衛など、多岐にわたる任務に酷使される便利な艦種に成長していった[1]。 駆逐艦は、艦隊、護送船団、戦闘群の中で大型艦船を護衛し、近距離からの強力な攻撃からの防御を提供することを目的とした、高速、機動性、耐久性に優れた軍艦である。もともとは、敵の水雷艇から味方の艦船を護衛するための「超水雷艇」たる水雷艇駆逐艦(TBD)として登場したもので、イギリス海軍が1892年度計画で建造した「ハヴォック」と「デアリング」が端緒となった[注 1]。まもなく、敵の水雷艇と交戦するだけでなく自らも水雷襲撃を担うようになっていき、1904年の日露戦争の頃には、このTBDは「他の水雷艇を破壊するために設計された、大きくて、速くて、強力な武装を持った水雷艇」となっていた[6]。1892年以降、海軍では「駆逐艦」という言葉が「TBD」や「水雷艇駆逐艦」と互換的に使用されていたが、第一次世界大戦までにほぼ全ての海軍で「水雷艇駆逐艦」という言葉が一般的に単に「駆逐艦」と短縮されていた[7]。 第二次世界大戦以前の駆逐艦は、単独で海洋活動を遂行するには耐久性に乏しい小型艦艇で、戦艦を頂点とする軍艦のピラミッド型秩序においては露払い程度の役回りでしかなかった[8]。しかし戦艦にかわって航空母艦が主力艦として台頭すると、高速の空母に随伴できるような巡洋艦・駆逐艦のみで機動部隊が編成されるようになり、駆逐艦の地位も向上した[8]。また戦後になって本格的にミサイルが登場すると、軍艦の戦闘能力は大きさに比例するという大艦巨砲主義の前提は崩れた[8]。潜水艦の脅威が深刻化して巡洋艦も対潜戦に従事するようになったこともあって、巡洋艦やフリゲートと駆逐艦との境界の不明瞭化が進み、単に、搭載する戦闘システムの性能や兵装の多寡による区別としての性格が強くなっていった[8]。 この結果、運用当事者と外部観測筋で種別が一致しない場合も生じており、例えば中国人民解放軍海軍の055型駆逐艦は、その大きさと武装のために、アメリカ海軍の一部のレポートでは巡洋艦と表現されている[9]。一方、カナダ、フランス、スペイン、オランダ、ドイツなどのNATO海軍の中には、共同開発された艦が国ごとに「フリゲート」や「駆逐艦」と異なる艦種呼称を付される場合や、呼称では「フリゲート」としつつ記号は「駆逐艦」として扱う場合もあり、これも混乱の原因となっている[10][注 2]。 19世紀後半の水雷兵器の発達とともに、これを主兵装とする戦闘艇として水雷艇が登場した。最初期の水雷艇は外装水雷や曳航水雷などを用いていたが、攻撃用水雷の決定版として自走水雷(後の魚雷)が開発されるとともに、こちらが用いられるようになっていった。露土戦争中の1878年には、ロシア帝国海軍のマカロフ大尉が指揮する艦載水雷艇がオスマン帝国海軍の砲艦を襲撃し、イギリスから輸入したホワイトヘッド魚雷によってこれを撃沈したことで、史上初の魚雷による戦果が記録された[14][注 3]。当時、重砲でも大型の装甲艦を撃破することは難しかったのに対し、このように魚雷を用いれば安価な小型艇でもこれを撃破しうることが着目されて、1880年代には各国海軍は競って水雷艇を建造した[1]。
概要
歴史
揺籃期 (19世紀末)