駅路
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、古代日本の道路について説明しています。松本清張の小説については「駅路 (松本清張)」をご覧ください。

駅路(えきろ)とは、古代律令制において定められた駅使が通行する官道のこと。七道駅路(しちどうえきろ)ともよばれる。宿駅駅馬(えきば/はゆま)が整備された(駅制)。中央もしくは国府が発給した駅鈴を携行する駅使のみが駅馬を用いることができた。

大宰府及び五畿七道国府とを結ぶ迅速な情報伝達を目的とする道路網であり、中央政府の命令・地方国司の報告・緊急事態の文書連絡は、駅使がこの道を用いて駅馬を乗り継ぎ文書を運んだ。都から放射状に道路が整備されたが、五畿七道を跨いだ国府間を連絡する道も整備された。

考古学調査の成果によれば、その幅は最小で6メートル (m) 程度、最大では30 mを超えていたことが判明している。また、直線道路という特徴も持っていた[注釈 1]。後世の街道も駅路に由来を持つものがある。
概要

日本の古代律令国家は軍事的・政治的に地方を支配し、中央集権体制を固めるために、畿内の中央と地方を結ぶ道路は、人の移動、物資の輸送のほかに、情報の連絡機能が重要視されていたことから、諸国に国司郡司を置いて駅伝制を整備した[2]。情報は、人々が自ら移動して伝達するものであったことから、駅伝制に基づいて、畿内と諸国の国府とを結ぶ敏速な交通手段の機能を備えた道として造られたのが駅路である[3][注釈 2]。そのため、敏速な情報伝達には欠くことのできない馬が疾走するのに足る設備として、(駅家)が必要間隔ごとに配置された[3]

駅路の幅は約20 m前後、広いところで30 mあり、30里(現在の距離で約16 kmに相当)ごとに官人など駅使の宿泊を供するための設備を有した施設である駅家(うまや)が置かれ、駅馬を常備して公文書などの伝達に利用された。駅路の総延長は約6300 - 6400 kmにもおよび、駅の数は400を上った[2][4]

大和と地方を結ぶ道路は大化以前から存在していたが、大化の改新以後の律令国家の形成に伴って整備が進められた[5]。とはいえ、駅路は一朝一夕に完成したものではなく、信濃国美濃国を結ぶ吉蘇路(木曽路)が完成したのは和銅6年(713年)のことであり、以後も駅路の整備・変更が行われている[6]。この時代は大きな川に橋を架ける技術が未熟だったことから、陸奥国出羽国武蔵国は東海道を経由しておらず、3国の行政区分は東山道に属しており、駅路も東山路経由で整備されていた。その後、東山道に属していた武蔵国は、東京湾奥部の湿地帯が時代とともに陸地化していったことから、8世紀末(771年)に行政区分が東海道に移管され、10世紀以後は駅路としての東海道が武蔵国を経由するルートにて確立された[7]。ときには、作路司と呼ばれる専門の役職が設けられたこともあり、大同3年(808年)には作路司に登用された3人の高官が、近江国丹波国などの五畿諸国の人夫500人を使役して、道路を築造したという記録が『日本逸史』に残されている[8]。駅路のシステム(駅伝制)は10世紀ごろまで続いたといわれているが、10世紀末期に始まった藤原氏摂関政治による地方政治の混乱と中央集権体制の弱体化によって、律令体制が崩壊するとともに駅路は使われなくなり、また駅路自体が人里から遠く離れたところを通っていたことから生活道路として利用されることもなかったため、しだいに山野に埋もれ廃れていった[9]
駅路のシステム

古代律令時代の駅路は七道駅路ともよばれ、古代日本の領域を覆うように巡らされた駅路の道路網を指し、畿内にある都(平城京、のちに平安京)を中心として樹状に、東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道七道の地域のすべての国々に伸びていた[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef