日本の政治家馳 浩はせ ひろし
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1961-05-05) 1961年5月5日(63歳)[1]
出生地 日本 富山県西礪波郡砺中町(現・小矢部市)[1]
出身校専修大学文学部国文学科[1]
前職高等学校教員(国語)
プロレスラー
所属政党(無所属→)
自由民主党(安倍派)
称号文学士(専修大学)
教員免許(高等学校)
配偶者高見恭子
公式サイトはせ浩(馳浩)石川県知事候補 公式サイト
獲得メダル
男子 レスリング
全日本レスリング選手権大会
銀1983グレコローマン90 kg級
金1984グレコローマン90 kg級
全日本学生レスリング選手権大会
金1983グレコローマン90 kg級
馳 浩(はせ ひろし、1961年〈昭和36年〉5月5日[1] - )は、日本の政治家、教育者(国語教師)、プロレスラー、アマチュアレスリング選手。石川県知事(1期)。日本維新の会顧問。旧姓は川辺[4]。
1984年のロサンゼルスオリンピックレスリング代表を経てプロレスラーとなり、新日本プロレス・全日本プロレスなどで活躍した。1995年に参議院議員に当選し政界入り。2006年にプロレスラーを引退。政治家としては衆議院議員(7期)、文部科学副大臣(第3次小泉改造内閣)、文部科学大臣(第20代)などを歴任。妻はタレントの高見恭子。血液型A型。 1961年5月5日、富山県西礪波郡砺中町(現・小矢部市)西野尻地区興法寺の農家[5]の三男として生まれ、小学3年進級時に親族であるリンゴ農家の馳家(石川県金沢市)の養子に入り[1][6]、金沢市立千坂小学校
来歴
1995年7月、自由民主党幹事長の森喜朗にスカウトされ、第17回参議院議員通常選挙に石川県選挙区から自由民主党の推薦を受けて無所属で立候補し、民主改革連合現職の粟森喬を破り初当選する。当初は会派「自由民主党・自由国民会議」、2か月後に正式に自由民主党所属国会議員となった。1996年11月、全日本プロレスに移籍する。2000年5月12日、衆議院総選挙立候補準備の為、参議院議員を辞職する。
2000年6月25日投開票の第42回衆議院議員総選挙に石川1区から立候補、民主党現職の奥田建を破り当選(奥田は比例復活)。2003年9月25日、文部科学大臣政務官に就任(2004年9月27日まで)。
2003年11月9日投開票の第43回衆議院議員総選挙で奥田に敗れるも比例復活で再選。
2005年9月11日投開票の第44回衆議院議員総選挙に重複立候補を行わず小選挙区のみで立候補、奥田を破り3選。2005年11月2日、文部科学副大臣に就任。2006年8月27日、両国国技館で引退試合を行い、プロレスラーを引退。2006年9月、自由民主党国会対策副委員長に就任。2007年7月15日、スタン・ハンセンPWF会長の退任に伴い、第3代PWF会長に就任。2007年8月、自民党副幹事長に就任。翌月に総裁が安倍晋三から福田康夫に交代したが引き続き留任した。2008年8月、自民党文部科学部会長に就任。同年9月10日、2008年自由民主党総裁選挙で小池百合子の推薦人になったことを理由に清和研の退会届を提出。