馮治安
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馮治安

プロフィール
出生:1896年12月16日
光緒22年11月12日)
死去:1954年民国43年)1月9日
台湾台北市
出身地: 直隷省河間府故城県
職業:軍人
各種表記
繁体字:馮治安
簡体字:?治安
?音:Feng Zhi?n
ラテン字:Feng Chih-an
和名表記:ふう ちあん
発音転記:フォン ジーアン
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馮 治安(ふう ちあん、繁体字: 馮治安; 簡体字: ?治安; ?音: Feng Zhi?n; ウェード式: Feng Chih-an)は、中華民国の軍人。国民軍出身の国民革命軍軍人で、日中戦争などで日本軍と何度も激戦を繰り広げた。は仰之。旧名は治台。
事績
馮玉祥配下として

最初は学問を志していたが、1912年民国元年)3月に募兵に応じ、左路備補軍第2営営長を務めていた馮玉祥の下で兵士となった。以後、馮玉祥に随従して各地の戦闘に参加し、馮治安は軍功をしばしば挙げた。1920年(民国9年)、馮玉祥率いる第16混成旅が第11師に拡編されると、馮治安は学兵営営長に昇進している。1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)でも馮治安は軍功をあげ、国民軍において衛隊旅旅長に昇進した。1926年(民国15年)春に馮玉祥が「赤化」批判を受けて下野、他の北京政府軍に包囲・攻撃される。この際に馮治安は衛隊旅を率いて粘り強く抗戦、国民軍の西北方面への撤退にも貢献した。[1][2][3]

同年9月、馮玉祥が五原誓師を行い国民聯軍総司令に就任すると、馮治安は師長に昇進、12月には西安に移駐した。1927年(民国16年)5月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、馮治安は第14軍軍長に昇進、部隊を率いて河南省信陽に進軍する。同年9月、いったんは国民政府側に易幟した?雲鶚が再び北京政府に戻ろうと図ったため、馮治安は孫良誠らの友軍と協力して靳の軍を即座に殲滅した。まもなく、この時期に馮玉祥に降伏した秦徳純が第14軍軍長となり、馮治安は番号を改められて第23軍軍長となった。[4][2][3]
盧溝橋事件までの活動

北伐完了後の1929年(民国18年)1月、馮治安は陸軍大学特別班第1期生として入学する。同年中に修了して部隊に復帰すると、馮玉祥と?介石の対立は激化しており、馮治安も反?戦争を戦うが中原大戦の敗北により降伏を余儀なくされた。その後、馮治安は宋哲元に随従して張学良配下に再編され、第29軍軍長となった宋の下で第37師師長に任ぜられている。1932年(民国21年)8月、察哈爾省警備司令に任命された。[5][2][3]

1933年(民国22年)1月、日本軍が山海関へ向けて侵攻を開始し、宋哲元率いる第29軍はこれを迎撃することになる(長城抗戦)。馮治安率いる第37師は3月9日に喜峰口へ到着、16日まで日本軍と激戦を繰り広げてこれを撃退することに成功した。この軍功は国内世論の喝采を集め、馮治安は国民政府からも青天白日勲章を授与された。なお、同年5月に馮玉祥が察哈爾民衆抗日同盟軍を結成した際には、馮治安もこれを密かに支持している。1935年(民国24年)4月、馮治安は陸軍中将銜を授与され、さらに廬山軍官訓練団にも参加した。1936年(民国25年)、冀察政務委員会委員長の任務に専念する宋に代わり、馮治安が河北省政府主席に任ぜられた。


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