馮延巳
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馮 延巳(ふ えんし[1]、ふう えんし[2]天復3年(903年)- 建隆元年5月27日960年6月23日))は、中国五代十国時代南唐人。は正中。広陵郡(現在の江蘇省揚州市[3][4][2][5])の人。またの名は延嗣。一説に名は延己[注 1]だが、延巳を支持する方がやや多い。南唐の先主李?・中主李mに仕えた。南唐中主李mの師父[注 2]でもあり、同時に李mの治世下で官は宰相に至った。父は南唐吏部尚書馮令?[注 3]で、弟の馮延魯もまた著名な文人である。死後、忠粛とされ、『陽春集』1巻があり、世に伝えられている。

馮延巳の詞風は清麗で、離別の情緒を写すのが上手く、高い芸術的完成度を持ち、李Uへの影響は大きい。馮延巳・李Uは、北宋以降の詞風に直接影響したと認められている(→#芸術的評価)。「吹皺一池春水(吹いて皺(しわよ)す 一池の春水)」の名句がある(→#逸話)。
経歴

唐朝滅亡のわずか4年前の天復3年(903年)に生まれる。当初は無官であったが南唐の先主・烈祖李?に見出されて取り立てられ、秘書郎(中国語版)を授けられた[4]。後の中主李mが、若き日に廬山に“読書堂”を建てた時、彼は側近として随従し[3]、その後、重ねて駕部(中国語版)郎中・元帥府掌書記(中国語版)にも遷った[3][4]。李?が崩じて李mが即位すると、保大元年(943年)、諫議大夫翰林学士を拝し、戸部侍郎に遷った。翌年、翰林学士承旨に進み、保大4年(946年)、中書侍郎から同平章事(宰相)を拝した。明くる年、罷免されて太子少傅となった。保大9年(951年)、冠軍大将軍とされ、召されて太弟太保となり、?州節度使を拝領した。保大10年、左僕射同平章事(宰相)を拝した。このように2度も宰相とされ、宋斉丘と並んで重ぜられたが、建州・福州へ遠征軍を派遣して失敗し[5][3]、保大15年(957年)、再び罷免されて太子少傅となり、そのまま建隆元年(960年)卒した[4]。時に年は五十八歳、諡は忠粛[4]

事跡は馬令南唐書』巻21・陸游南唐書』巻8・『十国春秋』巻26の本伝に見え、別に夏承Z『唐宋詞人年譜・馮正中年譜』が参考になる[4]

彼は弟の馮延魯や魏岑・陳覚・査文徽らと結託して賢臣を退けて政権を専断し、当時の人々より「五鬼」と呼ばれた等、史書における評価はあまり芳しくない。しかし、南唐、特に中主李mの治世下の派閥争いは非常に複雑で、その上、宋代に入って南唐の記録を残した人々(「釣磯立談(ちょうきりゅうだん)」の史虚白、「江南野史」の竜滾、「南唐書」の馬令など)は、多かれ少なかれそれらの流れを汲んでいるので、その正当な評価は難しい、という[5]
芸術的評価

生前、彼は博学で文章を善くし、弁説も得意で、能書家でもあって、多技多芸であり、詩に巧みで、特に詞を作ることを愛好していた[2][3]。その詞は没後散逸し、仁宗嘉祐3年(1058年)、彼の外孫である陳世修により編集された[4]『陽春集』1巻は120首を収め、後世に伝わっているが、その中には他家の作と疑わしいものが多く竄入しているという[2][5]

彼の詞は宋代に入ると一層流行し、北宋の詞人に大きな影響を与えたといわれ[5]、特に王国維は彼を「北宋一代の気風を開いた」(『人間詞話』)と認めていた[3]


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