馬越恭平
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馬越恭平

馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日天保15年10月12日) - 1933年昭和8年)4月20日)は、日本実業家三井物産に勤務し、大日本麦酒日本麦酒朝日麦酒札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」[1]「東洋のビール王」とよばれた[2]衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。
経歴[ソースを編集]
幼少期[ソースを編集]

1844年弘化元年)、備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)で父の元泉と母の古尾子の2男として生まれる[3]。馬越家は医者を生業としており[1]兄の元育が医学で親と対立し東京に出たため、次期当主として期待されていた[3]。幼少期は「負けずの恭弥やん」と呼ばれていた[4]。9歳の時に父の勧めによって興譲館に通い阪谷朗廬に学ぶ[1][4]。興譲館へは歩きで40分かけて通学し、毎朝「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}白鹿洞書院(びゃくろくどうしょいん)掲示」の暗誦をしていた[5]1915年(大正4年)、興譲館創立60周年の記念式典に参列し、講演をした[5]。当時の関係者は朗廬のことを話すときには感動して涙を流していたと語っている[5]
上坂、養子入り[ソースを編集]

1856年安政3年)、播磨屋を頼り大坂に上坂[4]頼山陽の弟子後藤松陰の門下で儒学を学び[4]1859年(安政6年)、その当時の豪商鴻池家の丁稚となった[1][6]1860年(万延元年)、播磨屋の養子となる[7]1867年(慶応3年)、養父が隠居した為播磨屋を継ぎ、「二代目播磨屋仁兵衛」を襲名[7]。同年、結婚した[7]
東京への憧れ[ソースを編集]

1872年明治5年)、初めて上京し東京で貿易業をしたいと決意したが播磨屋の義父には拒否され縁組を解消し[7][8]、長男である徳太郎を連れて帰郷した[8]。その後親族の会議では「1000円を出資する代わりに木之子で醤油造りをしてくれないか」と頼まれたが[8]、恭平は東京へ行くことを諦めておらずそれを察知した母古尾子は周りを説得し、岸和田にある実家に立ち寄り話をつけておく事や生活費を渡す事を条件に[8]東京の阪谷朗廬の住居に身を寄せ[9]井上馨先収会社に入社することができた[1][8]。給料は4円60銭であった[8]
帰郷、日本麦酒の再建など[ソースを編集]

1876年(明治9年)先収会社解散後、退職金の500円を貰いそれまでに貯めていた貯金と合わせて計3000円を持ち馬車に乗って再度帰郷した[1][8]。その時には先祖が元々持っていた田畑が他の人の手に渡っていたため、それを再度買い戻し先祖代々の土地を取り戻してから東京へ帰った[8]。その事業を引き継いだ三井物産の創立と共に、三井家各部の常務理事、専務理事を兼務した。西南戦争では政府軍の食料調達、物資輸送を担当し、莫大な利益を得た[9][10]1891年(明治24年)、日本麦酒醸造の業績を回復するため再建を託された。その1年後には利益をもたらすまでになり再建は成功した[9]1894年(明治27年)、日本麦酒の取締に再選し[8]東京桜川に住居を構えたが[8]、この1年で母と兄を亡くしている[8]。そして三井物産横浜支店長や帝国商業銀行頭取などを経て、総ての任を辞し、1896年(明治29年)日本工業倶楽部会長に就任[6]

日本麦酒との関係は、これより先の1892年(明治25年)、経営困難に陥っていた同社へ三井財閥が大株主であった為[1]三井物産から派遣され委員(重役)に就任したことが発端である。1893年(明治26年)、日本麦酒醸造は社名を日本麦酒株式会社へ変更し、1年後にはトップシェアとなった。また、1896年からも7年連続でトップシェアとなった[11]。その後、日本麦酒の経営が多忙となり、1896年(明治29年)1月11日、三井物産を退職し、ビール会社経営に集中する。中国鉄道の取締役に就任した事が問題となったことで、三井物産を退職したとも言われている[12]
三井物産での重要性[ソースを編集]

三井文庫の文庫長である由井常彦氏は、「三井物産内で木村正幹と馬越恭平は非常に重要な存在であり、創業期の益田孝にとって不可欠であったが、三井物産が国際的活動を始め総合商社に成長すると、2人は必要度が急激に低下した」としている[13]1900年(明治33年)頃には銀座ビアホールを開店するなど、新しいアイデアで経営の再建を進めた。
壮年期[ソースを編集]

1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第5区、進歩党)で当選し衆議院議員となる[14]。この年には阪谷朗廬の息子芳郎と大原一族などと備中会を作っている[15]。その3年後には備中に関係する150人弱の寄付により寄宿舎の「備中館」を建てた[15]。また同年に長男徳太郎と次男幸次郎をドイツへ留学させたが、徳太郎は客死し先祖が眠る三光寺に埋葬された[15]。一方幸次郎は醸造学を学び、大日本麦酒に入社している[15]1904年(明治37年)には勲四等に叙せられた。

日本麦酒では合併前の厳しい市場競争での経営危機が改善せず、渋沢栄一及び当時の内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出した。


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