馬見岡綿向神社
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馬見岡綿向神社
拝殿正面
所在地滋賀県蒲生郡日野町村井705
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分53.1秒 東経136度15分41.8秒 / 北緯35.014750度 東経136.261611度 / 35.014750; 136.261611 (馬見岡綿向神社)座標: 北緯35度0分53.1秒 東経136度15分41.8秒 / 北緯35.014750度 東経136.261611度 / 35.014750; 136.261611 (馬見岡綿向神社)
主祭神天穂日命
天夷鳥命
武三熊大人命
社格式内社(小)
県社
創建(伝)欽明天皇6年(545年
本殿の様式三間社入母屋造
例祭日野祭(毎年5月2?4日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}馬見岡綿向神社
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馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡日野町の東にそびえる綿向山の山頂に祀られている大嵩神社の里宮。式内社馬見岡神社に比定[1]旧社格県社目次

1 祭神

2 歴史

2.1 蒲生氏の庇護

2.2 日野商人の信仰を集める


3 境内

4 ギャラリー

5 文化財

5.1 国指定重要美術品

5.2 県指定有形文化財

5.3 県指定無形民俗文化財


6 現地情報

7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

祭神

綿向山を神体山とし、出雲系の三柱を祀る[2][注釈 1]

天穂日命(アメノホヒノミコト)

天夷鳥命(アメノヒナドリノミコト)

武三熊大人命(タケミクマオウシノミコト)

歴史

神武天皇の時代に出雲国の開拓神を迎えて祀り、545年(欽明天皇6年)に綿向山の頂上に祠を建てたのが始りと伝えられ、平安時代の初期の796年(延暦15年)に現在の地に移転されたとされている[4]。「東国諸国造」系図では伊佐我命の子・彦健忍雄心命が神武朝に天穂日命を馬見丘に奉斎したと記される[5]。彦健忍雄心命は近江国出雲臣の祖とされる。中世の1209年(承元3年)に境内の社殿がすべて焼失する火事があったが、社殿が再建されたのは181年後の1390年(明徳元年)のことであった[6]
蒲生氏の庇護

中世後期には日野に城下町を築いた蒲生氏が氏神として庇護し、蒲生上郡の総社として崇敬を集めた[7]。1521年(大永2年)に兵火で焼けた社殿は、1549年(天文18年)に蒲生定秀、1571年(元亀2年)蒲生賢秀によって修復された[8]。また蒲生定秀は1557年(弘治3年)に神輿3基を新調し、蒲生氏が支配する領域128村の奉幣や地侍を従えて祭りの行列に参加した[9]蒲生氏郷は1584年(天正12年)に伊勢に、その後会津に移ったが、当神社への寄進は続けていた[10]。会津黒川に転封した際、この神社の参道一帯にあった「若松の森」と呼ばれた松林を偲び、新たな領地「会津黒川」を「会津若松」に改名したという[11]。氏郷のあと蒲生氏は秀行忠郷忠知と引き継がれてゆき、領地も会津の後は宇都宮・会津・松山と転封するが、綿向神社への寄進は継続していた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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