馬王堆漢墓(ばおうたいかんぼ[1]、まおうたいかんぼ[2]、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: M?wangdu? Hanmu)は、中華人民共和国湖南省長沙市芙蓉区にある紀元前2世紀の墳墓。前漢の利蒼(? - 紀元前186年)とその妻子を葬る。
1972年から1974年にかけて発掘され、国際的に注目された。発掘時、利蒼の妻のミイラがまだ生きているかのような保存状態だったことで知られる。
副葬品に貴重な工芸品や帛書(馬王堆帛書)が含まれており、考古学だけでなく文献学・中国史・中国思想史・中国医学史・中国書道史などの諸分野に重要な資料を提供した。
経緯現在の馬王堆漢墓
馬王堆漢墓は湖南省長沙市の中心から東へ約8キロメートルの位置にある[3]。五代十国時代に長沙で楚王として割拠した馬殷の墓といつからか誤って伝えられ、これが「馬王堆」という名の由来になった[4][5][3][注 1]。1951年、中国科学院考古研究所[注 2]の調査によって漢代の墓葬群と認定され[3]、1956年以降は湖南省文物保護単位(中国語版)に指定された。
1971年末、近隣の者が東側の丘に墓坑を発見し[6]、翌1972年1月から湖南省博物館と中国科学院考古研究所が中心となり、全国から学者を集め大規模な発掘が行なわれた[6][3][5]。やがて出土した棺から生けるが如き婦人の遺体が発見されると、100社にのぼるマスコミが競ってこれを報道し、周恩来総理から一般庶民までがこの「西漢女尸」(前漢の女性遺体)の発見に沸き立った[7][8][9]。中国国外でもこのニュースは大きく報道され、ひろく関心を集めた[6]。副葬品の漆器に「?侯家」(たいこうか)、封泥に「?侯家丞」とあったことから、恵帝の時に列侯に叙せられた?侯家ゆかりの女性と考えられた[6]。
発掘の成果が極めて大きかったことから[4]、東側の丘を1号墓とし、1973年11月より西側の丘を2号墓として発掘が再開された[5]。2号墓は唐代に盗掘された跡があり[10]、数度の盗掘で内部が破壊されていたが[11]、残されていた副葬品の中に「利蒼」と刻まれた玉印、および「?侯之印」「長沙丞相」と刻まれた銅印という決定的発見があった[4]。