香辛料貿易
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経済的に重要なシルクロード(赤)と香辛料貿易のルート(青)は、オスマン帝国時代に遮断される。1453年の東ローマ帝国の崩壊は、アフリカ航路開拓のための探検を促し、大航海時代を引き起こした。1498年におけるヴァスコ・ダ・ガマの航海ルート(黒)。緑線は通常のルートであり、橙線は1488年のペロ・ダ・コビリャの旅程、青線はアフォンソ・デ・パイヴァの旅程である。

香辛料貿易(こうしんりょうぼうえき)は、香辛料ハーブ生薬及びアヘンなどを対象とした、古くから行われていた貿易(交易)のことである[1]。アジア圏は古代から香辛料貿易に関わり、古代ギリシャローマとも、ローマ-インドルートと香の道 (Incense Route) [2] を通して取引を行った[3]。ローマ-インドルートはアクスム王国(BC5世紀-AD11世紀)が1世紀以前に開拓した紅海航路を用いるなど海洋国家に依存した。7世紀中頃、発達したイスラム圏エジプトスエズを結ぶ隊商路を遮断してしまうと、アクスム王国(及びインド)は、ヨーロッパ貿易圏から離れてしまった。

アラブの貿易商は、レバント地方とヴェネツィアの商人を通してヨーロッパと取引を続けた。当初は、陸上ルートが香辛料貿易の主要なルートであったが、これは海上ルートによる商業活動の急激な成長にも繋がった[1]。中世中期から終わりにかけて、香辛料貿易においてイスラムの貿易商達がインド洋航路を支配し、極東の資源地開発を行った。彼らはインド洋航路を通して、インドの貿易市場からヨーロッパへの陸上ルートに繋がるペルシア湾や紅海に向かって香辛料を輸送した。このようにアラブの貿易商達が香辛料貿易を支配したが、1453年オスマン帝国東ローマ帝国を滅ぼし、地中海の制海権を得ると、これらを通る交易路に高い関税をかけたため、アラブ商人主導の貿易は衰退していく。

大航海時代に入ると貿易は一変する[4]。香辛料貿易(特にコショウ)は、大航海時代を通してヨーロッパの貿易商たちの主要な活動となった[5]1498年ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰経由によるヨーロッパ-インド洋航路を発見し、新しい通商航路を開拓すると、ヨーロッパ人が直接インド洋始め東洋に乗り込んでいった[6]。特にポルトガルはいわゆるポルトガル海上帝国を築き、当時の交易体制を主導した。

この大航海時代の貿易(中世の終わりから近世にかけての世界経済[5])は、東洋におけるヨーロッパ優位の時代を作った[6]。国家は貿易の支配を目指して香辛料交易路を巡って戦ったが[1]、それは例えばベンガル湾航路のように、様々な文化の交流、あるいは文化間の貿易取引を橋渡しする役割も持った[4]。だが、ヨーロッパ支配地は発展するのが遅れた。ポルトガルは、自身の影響下にあった古代のルートや港湾、支配の難しい国を用いる交易路に制限や限定を行った。オランダは(時間はかかるが)インドネシアスンダ海峡と喜望峰を直接結ぶ遠洋航路を開拓してポルトガルの支配する海域を避け、これら多くの問題を回避した。
前史インドとの香辛料貿易はプトレマイオス朝、続いてローマ帝国に関心を持たれた。エリュトゥラー海案内記』に基づいたインド洋(Erythraean Sea)における1世紀のローマ・インド間貿易のルート。

シナモンやカッシア(桂皮)、カルダモンショウガウコンなどの香辛料は、古くから東洋の国々では取引されていた[1]。これらの香辛料は紀元前には中東に届いたが、商人達によって香辛料の正体は秘匿され、空想的な物語が創られた[1]エジプト人は、プント人の土地やアラビアから輸入した香辛料を紅海で取引した[7]。香の道を通して取引された高級品には、インドの香辛料、コクタン、上質の織物などがある[2]。香辛料貿易は早くから陸上の交易路が利用されていたが、海上交易路が陸上交易路を発達させる手助けをしたことがわかっている[1]プトレマイオス朝は紅海の港を使用するインドとの貿易を活発化させた[8]

ローマエジプト(アエギュプトゥス)が誕生すると、ローマ人は既存の貿易をさらに発達させた[8]。ローマ-インドルートは、1世紀より前に紅海ルートを開拓したアクスム王国の海洋技術と貿易力に依存していた。紀元前30年から西暦10年頃にローマとアクスムは交流を始め、アクスムはアラビア海の季節風を利用する交易知識をローマ商人と共有した。この親密な関係は7世紀中頃まで続いた。

紀元前80年には、アレキサンドリアがギリシャ・ローマ圏に入るインド産香辛料の有力な交易の中心地となった[1]。インドの船はエジプトに向けて出航した。南アジアの海上貿易ルートは1つの有力な勢力の支配下にあったわけでは無かったが[9]、東洋の香辛料は様々なシステムを通して、主要な香辛料貿易港であるインドのカリカットに運ばれた。

『The Cambridge History of Africa(ケンブリッジ大学 アフリカの歴史)』(1975)によれば[3]

「The trade with Arabia and India in incense and spices became increasingly important, and Greeks for the first time began to trade directly with India. The discovery, or rediscovery, of the sea-route to India is attributed to a certain Eudoxos, who was sent out for this purpose towards the end of the reign of Ptolemy Euergetes II (died 116 BC). Eudoxos made two voyages to India, and subsequently, having quarrelled with his Ptolemaic employers, perished in an unsuccessful attempt to open up an alternative sea route to India, free of Ptolemaic control, by sailing around Africa. The establishment of direct contacts between Egypt and India was probably made possible by a weakening of Arab power at this period, for the Sabaean kingdom of South-western Arabia collapsed and was replaced by Himyarite Kingdom around 115 BC. Imports into Egypt of cinnamon and other eastern spices, such as pepper, increased substantially, though the Indian Ocean trade remained for the moment on quite a small scale, no more than twenty Egyptian ships venturing outside the Red Sea each year.」
アラビアとインドの香や香辛料における貿易はますます重要なものとなり、ギリシア人は初めて直接インドと貿易を始めた。インドへの海路の発見、または再発見は、プトレマイオス8世の治世の終わり頃にキュジコスのオイドクサス(Eudoxus of Cyzicus)なる人物が始まりと考えられている。オイドクサスは、2度インドへ船で旅をした。その後、彼はプトレマイオス朝に対抗して、新しいインドへの海路を構築しようとしたが、これに失敗して道中で死亡した。これは、アフリカの周りを航行することで、プトレマイオス朝の支配圏を避けるというものであった。紀元前115年頃にアラビア南西部にあったサバア王国が崩壊し、ヒムヤル王国が台頭した。この期間に、おそらくアラブ勢力の弱体化で、エジプトとインドとの直接接触が可能になった。エジプトに輸入されるシナモンやその他コショウなどの東洋の香辛料はかなり増加した。しかしながら、インド洋航路での貿易も小規模ながら短期間続いており、毎年、20隻未満のエジプト商船が危険を冒して紅海の外に出ていた。

インドとギリシャ・ローマ圏の貿易は増加し続けた[10]。この貿易においてインドから西方世界に輸出する主な物産は香辛料であり[11]、絹や他の交易品は無視されていた[12]

ジャワ島ボルネオ島などにインドの文化が流入した際には、香料が求められた[13]。これら貿易の拠点から、後に中国やアラブの市場にも交易品が供給されるようになった[13]。ギリシャの『エリュトゥラー海案内記』には、大きな船が東のKhruseに航海していく、いくつかのインドの港を命名している[14]

イスラム教が誕生する以前のメッカ人は、ローマとの高級品の貿易で、古いルートである香の道を使用し続けた[15]。メッカ人が関わった輸出品は、アラビアの乳香、東アフリカの象牙、インド産の香辛料、中国の絹など、変わらない交易品が扱われた[15]
アラブの貿易と中世ヨーロッパ紅海を用いたルートはイタリアと南インドを結んでいた。

ローマは5世紀に香辛料貿易の一端を担ったが、アラビアの国と違い、その役割を中世まで持続させることはできなかった[1]イスラム教の成長が、エジプトとスエズを結んでいた陸上交易路を塞いだことにより、アラブの貿易商人たちは、レバント地方経由でヨーロッパとの貿易を続けた。

東南アジアとインドの交易は、7-8世紀の間にかけて、アラビアペルシアの商人にも重大な影響があったことがわかっている[13]。アラブの貿易商はインド洋航路を支配し、秘匿されていた「香辛料諸島(Spice Islands)」(モルッカ諸島[注釈 1]バンダ諸島)のような極東の資源地を開発した。モルッカ諸島に関していくつか言及された史料がある。中国では『梁書』「海南伝」にモルッカ諸島を指すと見られる「馬五国」という名称が記録されており、中国人海商が海外飛躍した元代に書かれた『島夷誌略』には、モルッカ諸島へ至る航海についても触れられている。ジャワの年代記(1365)は、モルッカとマロコ(Maloko)[16] について言及しており、14-15世紀における最初の明確なアラブ人とモルッカ諸島の関係を含んでいる[16]。また、スライマ・アル=マール(Sulaima al-Mahr)は「(ビャクダンが見つかった)ティモール島の西にバンダ諸島があり、ここではナツメグメースが手に入る。このクローブの島はマルク島(Maluku)と呼ばれている。」と言及している[16]

マルクで採れたクローブは、船でカリカットのような港町とスリランカを経由して、インドの市場で取引された[17]。そこから、アラビアの港に向かって貿易品は出荷された。ペルシャ湾のホルムズ王国(en:Ormus)や紅海のジェッダ、稀に東アフリカまで、葬儀を含めた様々な用途のために用いられた[17]アッバース朝は、インドや中国との貿易のため、アレクサンドリアディムヤートアデンシーラーフを通開港として用いた[18]。インドから港湾都市のアデンにやってきた商人達は、交易品の麝香樟脳龍涎香、ビャクダンをイブン・ジヤド(イエメンのサルタン)に税として貢納した[18]

インドの香辛料輸出については、Ibn Khurdadhbeh (850)、al-Ghafiqi (1150)、Ishak bin Imaran (907)、Al Kalkashandi (14世紀)などの著書で言及されている[17]。インドを旅した中国人の三蔵法師は、「商人達は遠い国へ出発する」とプリーの町について言及している[19]

アラビアからの陸上交易路は、地中海沿岸に通じていた。8世紀から15世紀にかけて、ヴェネツィア共和国他イタリア海洋都市国家がヨーロッパと中東の貿易を独占した。絹と香辛料貿易(香辛料、香、ハーブ、生薬、アヘン)で、これら地中海の都市国家は驚異的な繁栄を成し遂げた。香辛料は中世に医療品として需要があり、高価な商品であった。これらはアジアとアフリカからの輸入に限られた。ヴェネツィア商人は、陸路と海路を結ぶ重要な交易地点から他のヨーロッパ人を締め出し、ヨーロッパ中に貿易品を流通させた。この体制はオスマン帝国の台頭で、1453年コンスタンティノープルが陥落するまで続いた(コンスタンティノープルの陥落)。
大航海時代:新規航路の開拓と新世界の発見詳細は「大航海時代」を参照ポルトガルのインド艦隊の貿易ルート(青)。1498年のヴァスコ・ダ・ガマの旅程とそのマニラ・ガレオン及びスペインインディアス艦隊が1568年に確立したルート(白)。ゲオルク・ブラウンとフランツ・ホーゲンベルクの地図より、1572年におけるインドのカリカットのイメージ。

ヴェネツィア共和国は地中海における香辛料貿易の独占を通じ、高い国力とヨーロッパ列強内での重要な地位を確保するようになった。他の強国は、ヴェネツィアの独占体制を崩すため、海外進出を図り始めた。その中の重要な成果の1つは、ヨーロッパ人探検家によるアメリカ大陸の発見であった[1]。15世紀中頃まで、東洋との貿易はシルクロードを通して行われ、ヴェネツィアジェノバといったイタリアの海洋都市国家や東ローマ帝国が中間商人として活躍していた。しかし、1453年オスマン帝国コンスタンティノープルを占領したため、東ローマ帝国の支配は消滅した。


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