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香西氏(こうざいし、こうざいうじ)は、日本の氏族。河西とも書かれる[1]。
讃岐香西氏流[1]
家祖香西資村[1]
種別武家
出身地讃岐国香川郡香西邑[1]
主な根拠地讃岐国阿野郡
讃岐国香川郡笠居郷佐料[4]
支流、分家上香西氏(武家)
下香西氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族
讃岐国の国司であった藤原北家の流れを汲むとされる日本の氏族。室町時代には讃岐東部において最大の勢力を有する国人となり、讃岐守護であり室町幕府管領となった細川京兆家に仕え細川四天王と呼ばれた。応仁の乱後には山城国や丹波国にも所領を有し、その後の細川氏の内訌にも大きく関与した。
出自を称し、三男・重高
鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西氏」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の傘下に入った。 南北朝時代には、香西氏は北朝につき、羽床氏は南朝についた。室町幕府における讃岐守護は細川氏であり、応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱では、香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、当主の香西元資
室町時代
香川氏、安富氏、奈良氏は元々は讃岐の国人ではなく、細川氏の讃岐入部に伴って香川氏と奈良氏は西讃、安富氏は東讃に入り、香川氏は西讃岐守護代、安富氏は東讃岐守護代に任ぜられたが、香西氏の所領は安富氏を凌ぐものであった。東讃は、他に植田氏、寒川氏などが割拠しており、それぞれ細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げている。
香西元資の長男・元直は常に京都にあって勝元を補佐した為、讃岐の領地は元直の弟・元綱が相続し、元直系の上香西氏、元綱系の下香西氏に別れた。 元直の子・香西元長は、勝元の子・管領・細川政元の助力を得、明応6年(1497年)には山城守護代となった。元長は細川政元の養子・澄之(九条家)・高国(野州家)・澄元(阿波細川家)のうち澄之に属し、永正4年(1507年)に元長は、薬師寺長忠・竹田孫七
上香西氏
更に細川澄元と三好之長は、讃岐において植田三家の十河氏と図り、香西氏・寒川氏らを攻めたが、周防の雄・大内義興に擁立された10代将軍・足利義稙が上洛を開始し、これに香西氏だけでなく香川氏も応じ、更に細川高国が寝返ったため、細川澄元・三好之長は讃岐及び畿内において勢力を失った。
元長の跡を継いだ香西元盛は、波多野清秀(丹波)の子であり、管領・細川高国に仕えたが、大永6年(1526年)、讒言により自害させられた。これに憤った元盛の兄弟・波多野元清と柳本賢治が細川澄元の子・晴元と通じ高国に対して反旗を翻したため、高国政権は崩壊した(桂川原の戦い)。
元盛の跡を継いだ香西元成(越後守)は丹波国を拠点として、細川晴元に仕え、三好政勝と共に三好長慶に抗したが、永禄3年(1560年)、炭山城(山城)で戦死した。
上香西氏の名跡を継いだ香西長信(越後守)は、元亀元年(1570年)、野田・福島(摂津国)に籠もって織田信長に対抗するが、三好政勝と共に投降した(野田・福島の戦い)。その後離反し、天正3年(1575年)に新堀城(摂津)に籠城するも敗れ、斬首された(高屋城の戦い)。
下香西氏(元綱の子)は大内氏に属し、備讃瀬戸を中心に雄飛する塩飽水軍を有して、享禄4年(1531年)には朝鮮に船を出し交易を行い利益を得、香西氏の全盛期を築いた。しかし細川澄元の子・晴元が細川高国を破り管領となると、三好氏と結びついた植田三家の十河氏が讃岐を平定し、香西氏も三好氏の傘下に入った。