香田清貞
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香田 清貞
こうだ きよさだ
生誕 (1903-09-04)
1903年9月4日
日本 佐賀県小城郡三日月村
(現・小城市
死没 (1936-07-12) 1936年7月12日(32歳没)  
日本 東京府東京市渋谷区
(現・東京都渋谷区)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1925年 - 1936年
最終階級 大尉
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香田 清貞(こうだ きよさだ、1903年9月4日 - 1936年7月12日)は、昭和前期の大日本帝国陸軍軍人[1]。最終階級は陸軍大尉。二・二六事件で反乱軍を指揮した青年将校の一人で、軍法会議により死刑判決を受け、処刑された。
来歴

佐賀県小城郡三日月村(現・小城市)久米に、長男として生まれる[2]。父は陸軍特務曹長まで務めて退役後は株取引で財をなした人物で[3]、下に妹と弟がいた[4]

佐賀県立小城中学校(現・佐賀県立小城高等学校)2年時に熊本陸軍幼年学校に入校し、その後陸軍士官学校に進んで1925年に第37期で卒業した[2]。同期に、二・二六事件でともに決起した村中孝次がいた[2]。士官学校への進学は、父の希望に沿ったものだった[3]

少尉任官後に歩兵第1連隊付を拝命し、1934年に大尉に昇進して中隊長となる[2][5]。この間、1930年に結婚し、1932年に長女、1933年に長男をもうけた[5]。妻を結婚相手として推薦したのは同じ連隊にいた栗原安秀[5]、退役した獣医少佐の娘だった[3]。結婚後に香田は政治的な活動への関心を深め、1933年に発覚した救国埼玉青年挺身隊事件では栗原らとともに検察資料に名前が記載された[5]。香田の自宅は革新運動に賛同する将校が集う場となり、憲兵の監視対象とされた[5]

大尉昇進から長く経たない時期に支那駐屯軍の中隊長として赴任した[2][注釈 1]。この際、妻子は香田の両親の元に預けた[5]。この赴任は、政治活動にかかわる香田が東京にいることを危ぶんだ上官の判断だったという[5]。1935年6月に帰国して、12月に歩兵第1旅団副官となる[2]。帰国後は吉祥寺に父が借りた家に妻子とともに住んだ[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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