香港映画
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香港電影金像奨像のレプリカ
アベニュー・オブ・スターズ『香港のスピルバーグ』と呼ばれることもあるツイ・ハーク監督

香港映画(ホンコンえいが)は、香港で制作される映画である。香港の経済における重要な輸出産業である[1]
歴史
太平洋戦争終戦まで

香港初の映画製作会社が誕生したのが1922年1928年カンフー映画の原点である剣劇映画の第1作『紅蓮寺炎上』が制作され大ヒットした。『紅蓮寺炎上』のヒット以来、『青龍寺炎上』や『九龍山の火事』等々、ご都合主義の炎上物が数限りなく作られた。

1930年代に入り、香港映画もサイレントからトーキーへと移行した。『女用心棒』『山東のならず者たち』『白芙蓉』『荒江の烈婦たち』等、数多くの剣劇映画が製作され、「剣劇映画の黄金時代」と呼ばれる。しかし、1931年満州事変以降状況は一変し、抗日映画が民衆に歓迎され、剣劇映画の人気が低迷した。さらに国民党による言語統一規制により、広東語映画の製作、上映が禁止され、北京語映画が製作されるようになった(後に、この規制に反対した香港映画人の尽力により規制は緩和される)。

日中戦争の勃発に伴い、多くの上海の映画人が香港に逃亡した。彼らが香港で作り始めた北京語映画は、「広東語映画よりも上品で格調が高い」と香港人からも人気を集めるようになった。香港映画界は、香港出身映画人による広東語映画界と、中国大陸から南下してきた映画人による北京語映画界の二つに明確に区別され、その後長期にわたって熾烈な競争を繰り広げた。中国国内での広東語映画の一般的なイメージは「泥臭くて下品な低級娯楽」というものであった。このイメージに対して広東語映画人は「下品だ、低級娯楽だと言うが、これこそが真実の香港の姿だ」と反論し、粤劇映画(広東オペラ映画)や抗日映画を量産し続けた。

抗日映画は1941年12月の日本軍による香港占領まで作られ続けたが、日本に占領された後の香港では1945年8月の太平洋戦争終戦まで、香港映画は一本も作られなかった。戦前に香港で制作された映画は500本以上あったが、現存しているフィルムは4本しかない。
終戦直後

終戦後、映画製作を再開した香港映画界だったが、香港出身映画人による広東語映画界と、中国大陸から南下してきた映画人による北京語映画界の2つに明確に区別されたままであった。戦前から、「泥臭くて下品な低級娯楽」という香港映画のイメージに対し広東語映画人は「下品だ、低級娯楽だと言うが、これこそが真実の香港の姿だ」と反論し、セックス描写や暴力を取り入れた現代劇作品を作るようになった。

これに対し、上海から来た北京語映画人たちは、1949年に「広東語映画清潔運動宣言」を発表し、広東語映画の内容と共に広東語映画人の映画製作態度を見直すように訴えた。この運動の結果、広東語映画人も、「良質の広東語映画」を製作することに目を向けるようになり、社会の矛盾を描いたものや、文芸作品などが増えていった。製作された映画の全体の約40%を占めるのが粤劇映画(広東オペラ映画)であり、広東地方の伝統的な舞台演劇の演目から映画の題材を採り、同時に舞台俳優をそのまま映画俳優として起用する場合が多かった。特に“男装の麗人”と呼ばれた女優、ヤム・キムファイ(任剣輝)が大人気で、彼女は引退までに300本以上もの映画に出演し、粤劇映画全盛時代を築いた。

そして、剣劇映画も再び製作されるようになった。主に戦前の上海映画のリメイクや時代劇小説を映画化したものが人気を呼び、人間には不可能な「超自然的な才能を持ったヒーロー」が登場する作品が数多く作られた。ヒーローが使う武器もそれまでの単なる剣や槍ではなく、飛剣や炎の槍などの非現実的な効果を出すものが好まれた。

1949年、クワン・タッヒン(関徳興)主演の黄飛鴻を題材とした『黄飛鴻傳』が封切られ大ヒットした。この作品は剣劇映画ではなく、「素手による戦い」つまり、香港映画の代名詞ともいえる「カンフー映画」の第1弾である。なお、2007年現在までに関徳興が黄飛鴻を演じた回数は84本にのぼり、これは同一題材で製作された映画の数としては現在世界最多でギネスブックに掲載されている。

この影響で、剣劇映画の主人公も超自然的な才能を持ったヒーローよりも、現実的な人物が主人公の作品が好まれるようになる。標的に向かって剣が空を飛ぶのではなく、剣士が直接敵を斬るという、ごく当たり前の表現方法が初めて使用されるようになった。同時に方世玉のように主人公が体制の反逆者であるような政治的なテーマが剣劇映画の中に多く現れ始めた。

一方の北京語映画界は、上海映画の雰囲気を色濃く残す作品を多く製作していた。戦後、中国大陸を離れて香港に南下してきた多くの戦争難民たちに支持され、広東語映画よりも洗練された映画は、次第に元々香港にいた人々も魅了していくようになる。特に人気があったのが、歌が何曲も挿入される黄梅調映画(歌謡映画)だった。女優パイ・コァン(白光)やリー・リーホァ(李麗華)が人気で、彼女たちが劇中で歌った歌が、そのまま流行歌となった。
ショウ・ブラザーズ黄金時代ランラン・ショウ《邵逸夫》ショウ・スタジオ《邵氏影城》

剣劇映画の人気が下降し、1953年には製作本数も過去最低に達した。不調の原因は、粤劇映画とクワン・タッヒン(関徳興)の黄飛鴻シリーズが人気を二分していたことと、黄梅調映画と称される北京語映画の人気が上がったためである。また、コメディ映画や社会派現代劇も人気となり、剣劇映画の人気低迷以外は広東語映画界は絶好調であった。

50年代後半から60年代初頭になると粤劇映画が急激に衰えを見せ始め、広東語映画全体の5%を占める程度まで落ち込んだ。これは、広東オペラ自体が若い世代に敬遠され始めたためで、結果的には70年代に3本製作された後、粤劇映画は香港映画界から完全に姿を消してしまう。若い世代に支持されたのは青春映画で、チャン・ポージュ(陳宝珠)やジョセフィーン・シャオ(蕭芳芳)ら女優が特に人気があった。

広東語映画界は、相変わらずクワン・タッヒン(関徳興)主演の黄飛鴻シリーズを作り続けていたが、次第に若い世代には受け入れられなくなっていた。社会派映画やコメディ活劇はそれなりにヒットしていたものの、それ以外の作品はどれも粗製乱造の為、“七日鮮(七日で作られる映画)”と北京語映画人からは嘲笑された。

北京語映画界は、黄梅調映画と文芸映画を二本柱として製作し、剣劇映画やクンフー映画を一切製作していなかった。ところが、若い世代が広東語映画界の剣劇映画やクンフー映画を支持し、黄梅調映画が敬遠されはじめた事により、北京語映画界は窮地に立たされた。

この北京語映画界の隆盛を2つの映画会社が支えた。まず1956年にシンガポール華僑のロク・ワントー(陸運濤)率いる『キャセイ・オーガナイゼーション(國泰機構)』を母体とする『MP&GI(國際電影懋業公司)』が設立。続いて1959年にはランラン・ショウ邵逸夫)の『ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟香港有限公司)』が設立された。

1965年、ショウ・ブラザーズは清水湾に巨大スタジオ“邵氏影城”を建設。また、自社の製作面の充実を念頭に置き、日本の日活東宝から井上梅次中平康村山三男といった監督や、名カメラマン西本正ら優れた人材を招き、彼らの技術や知識を自社の人間に貪欲なまでに吸収させた。


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