香椎
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この項目では、福岡県福岡市の地名である香椎について説明しています。

その他の用法については「香椎 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

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香椎(かしい)は、福岡県福岡市東区の北部に位置する地域。神功皇后縁の香椎宮があり古い歴史をもつ一方、戦後は海岸部の埋め立てが進み福岡市東部の副都心の一つとなっている。香椎地区にはJR鹿児島本線とJR香椎線の乗換駅であるJR香椎駅と、西鉄貝塚線西鉄香椎駅、福岡都市高速1号線北端の出入口があり、福岡市東部の交通の要所でもある。

広域的に見た場合、南側では多々良川(たたらがわ)以北の名島、千早(ちはや)、松崎、北側では唐原(とうのはる)、下原(しもばる)にかけて、東側では舞松原(まいまつばら)、水谷(みずたに)、香椎台、西側では香椎浜香椎浜ふ頭香住ヶ丘などの博多湾沿岸、さらに人工島アイランドシティ香椎照葉みなと香椎)にかけての地域を香椎とすることが多い。狭くは、南部を除く旧糟屋郡香椎町の地域を、さらにはそのうち香椎宮周辺の地域もしくは香椎駅前の地域を指す。
歴史香椎潟と香椎周辺の史跡・名勝。 かつて香椎に存在した香椎潟は現在ほとんどが埋め立てられている。香椎宮頓宮にある万葉集の歌碑

この地域では古墳時代より前の遺跡は少ないが、神功皇后(オキナガタラシ姫、オホタラシ姫)の伝承と縁の深い香椎宮がこの地に存在することもあって、カシヒの名はすでに『古事記』『日本書紀』を始めとする古史にみられる。これらではカシヒに訶志比(『古事記』)、橿日(『日本書紀』)、拍P(『筑前国風土記』逸文)など様々な字が当てられている。『記紀』に基づけば香椎宮周辺は元は仲哀天皇熊襲征伐、神功皇后の三韓征伐の大本営のあったところだとされる。名の由来について18世紀初めの『筑前国続風土記』は、この地で急逝した仲哀天皇の寝棺を椎の木に掛けていたところ異香が四方に薫ったため「香椎」としたのだとの社家の伝承を伝える[1]。他に「首都」「大村」といった意味をもつという推測や[2]、丘陵が海辺へと落ちるところであるから「傾(かし)ぐ・辺(へ)」が元となったのではないかとする推測がある[3][4]

古墳時代の考古学遺跡として、現在、香住ヶ丘の住宅地となっている丘陵にあった4世紀のものと思われる「香住ヶ丘古墳」(径25m円墳と推定)からは舶載と思われる三角縁二神二獣鏡が出土しており[5][6]、また香椎宮そばの山上には「舞松原古墳」(径30mほどの帆立貝式古墳)があって4世紀後半のものと考えられている。

現在の香椎宮にあたる橿日廟(香椎廟、かしいびょう)は奈良時代の724年に創建されたとされ、『万葉集』には、728年、橿日廟からの帰路に詠まれた大伴旅人の香椎潟の歌である、いざ子供 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ[7]

をはじめ3首が収められている。香椎潟はかつて香椎に存在した遠浅の入江で、明治期までは南の名島と北の香住ヶ丘の丘陵に挟まれた地域では現在の西鉄貝塚線およびJR旧香椎操車場のあたりまで海岸線が湾入していた。奈良から平安前期には、橿日廟・香椎宮は朝廷から特殊な扱いを受けていたとみられ、朝廷との関わりの深さにもかかわらず『延喜式神名帳にも掲載されていない。特に当初は新羅との外交に関わる場合に使いが送られることが多かった[8]

10世紀、平安時代中期に編纂された『和名抄』では糟屋(カスヤ)郡香椎(カスヒ、加須比)郷としてその名がみえる。また香椎宮そばの御飯ノ山(老の山、おいのやま、標高90m)の麓からも同時期まで遡る遺構・遺物が発見されている[9]

香椎の北東端にあたる立花山は、鎌倉時代末の1330年に豊後大友氏大友貞載(立花貞載)によって立花城が築かれて以来16世紀までこの地の重要な軍事拠点であったことで知られる。 立花城の時代には現在の下原に城下町があった。 また御飯の山山頂からも中世の山城が発見されており、麓の遺跡からもこの時期に大規模な造成を行ったことが確認されている。

南北朝戦国時代には香椎宮の領地とも関連して、香椎はかなり広い範囲を指す名称として用いられており、新宮や三苫、宇美も香椎郷内として引かれた例が見られる[10]。この時代、立花城をめぐって香椎周辺は幾度かの戦いの舞台となった。名島南端の多々良川河口付近にはかつて遠浅の干潟があり、この地では1336年に足利軍と菊池軍が戦い(多々良浜の戦い)、1569年には大友軍と毛利軍との合戦が行われた(多々良浜の戦い)。さらに1586年には立花城で立花統虎(立花宗茂)が島津の大軍に対し激戦を繰り広げ撃退した。


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