かがわ きょうこ
香川 京子
『映画情報』1957年2月号より
本名牧野 香子(旧姓:池辺)
生年月日 (1931-12-05) 1931年12月5日(92歳)
出生地 日本・茨城県行方郡麻生町
(現?行方市)[1]
身長162 cm
職業女優
ジャンル映画・テレビドラマ
活動期間1950年 -
配偶者あり
主な作品
映画
『ひめゆりの塔』[1]
『東京物語』(1953年)[1]
『近松物語』
『どん底』
『悪い奴ほどよく眠る』[1]
『モスラ』
『天国と地獄』
『赤ひげ』
『男はつらいよ 寅次郎春の夢』
『式部物語』
『まあだだよ』
『阿弥陀堂だより』
『峠 最後のサムライ』
『島守の塔』
テレビドラマ
『肝っ玉かあさん』
『水色の時』
『春日局』
『芋たこなんきん』
受賞
東京国際映画祭
国際フィルム・アーカイヴ連盟賞
2011年[注釈 1]
日本アカデミー賞
最優秀助演女優賞
1993年『まあだだよ』
優秀助演女優賞
1978年『翼は心につけて』
1990年『式部物語』
ブルーリボン賞
助演女優賞
1993年『まあだだよ』
その他の賞
キネマ旬報賞
助演女優賞
1990年『式部物語』日本映画批評家大賞
女優賞
1993年『まあだだよ』
助演女優賞
2002年『阿弥陀堂だより』
ゴールデン・グローリー賞
1995年
サファイア大賞
2006年毎日映画コンクール
田中絹代賞
1993年『まあだだよ』紫綬褒章(1998年)旭日小綬章(2004年)川喜多賞(2008年)「#受賞歴」も参照
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香川 京子(かがわ きょうこ[3]、1931年〈昭和6年〉12月5日[出典 1] - )は、日本の女優。本名は、牧野 香子(まきの きょうこ)。茨城県[4]行方郡麻生町(現行方市)生まれ。東京都立第十高等女学校卒業[1]。身長162 cm、体重45 kg[6]。 茨城県行方郡麻生町(現・行方市)で生まれる。生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋へ移る。 小学校に入る1年前に東京に戻るも、女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、茨城県の下館に疎開。間もなく母親が麻生町に疎開したため、自らも麻生町に戻る。 女学校時代は勤労奉仕ばかりで、勉強することはあまりなかった。 1945年に東京に移り住む。1949年 1949年に東京都立第十高等女学校を卒業。東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」で 約6000名の中から合格し、新東宝へ入社する[1][5]。女学校卒業時に漠然と将来を考えた際に、当初は英語の勉強をしたいと考えていたが家庭の事情で断念。『白鳥の湖』を観賞してバレリーナになりたいと考えるも、専門家から、目指すには遅すぎると指摘され、どうしようか考えあぐねている時に新聞のニューフェイス募集記事が目に止まって応募したという。一般会社の入社試験も同時進行で受けており、最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまうが、母の助言もあり、女優の道に進むことになる。 同年、映画『帰国』でデビュー[5]。 芸名は映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と自身で考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、「きょうこ」という音も用いられるために決定したという。1954年『サンケイグラフ』1954年9月5日号より 映画会社専属が当たり前だった時代だが、大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになった[1][7]おかげで、各映画会社の黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。本人は「個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思う」と謙遜して答えている。 『ひめゆりの塔』への出演が転機になったようで、女優としての意義を意識するようになった。監督の今井正からは役作りのために役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと述べている[8]。 続いて成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。 溝口健二監督の『近松物語』ではヒロインを演じ、初の人妻を演じる。当時は未婚であったため、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったという。本人の思い出に残る作品であり、監督に「芝居は相手の言葉や動きに反射してでてくる。反射して下さい」と言われ[9]、「できるまでやらされ死ぬほどつらかったが、芝居の基本を教えてもらいありがたかった」と振り返っている[1][9]。 黒澤明監督の作品にも多く出演し、黒澤作品の看板役者であった三船敏郎の恋人役や妻役を演じることが多かった[注釈 2]。黒澤作品において、三船とは9回の共演回数を誇る[注釈 3]。特に思い出深い作品は『悪い奴ほどよく眠る』であるという。 『モスラ』(1961年)で共演した小泉博は、香川について明るく知的で、お嬢さん役として素晴らしいという定評であったと証言している[11]。東宝の照明技師であった高島利雄は、現場で一緒に撮った写真をわざわざ送ってくれるなど、気さくな人物であったと述懐している[12]。
来歴・人物