香島 ラッキー・御園 セブン(かしま ラッキー・みその セブン)は、日本の漫才コンビである。略称は「ラッキー・セブン」。戦前から戦後すぐにかけ、東京や上方を拠点に、東京(江戸)弁を話すしゃべくり漫才コンビの草分けとして、リーガル千太・万吉らとともに人気を博した。 1930年(1929年とも)頃コンビ結成。1934年[1]に吉本興業の専属となり、東京本部(東京吉本)の若手として売り出される。1938年11月にはわらわし隊の一員として中国戦線へ慰問を行った。その直後の1939年、他の芸人とともに新興キネマ演芸部に引き抜かれた[4]。吉本の5倍の給料を出す、という条件だったという。ラッキーは「総理大臣の年俸より、あたしの方が、25円も高かった[5]」と回想している(このほかに新興に参加した東京の漫才師に、隆の家万竜、桜川ぴん助・美代鶴らがいた)。やがて、敵性語の使用禁止で「香島 楽貴・矢代 世文」と名乗らされる(他の改名候補に「ラッキョ・センブリ」があった)。 戦後は漫才作家
メンバー
香島 ラッキー(かしま ラッキー、1909年4月12日[1] - )
本名:香島 慶一[1]。北海道生まれ、東京育ち[1]。商業学校を卒業後、三越の店員となる[1]。薩摩琵琶錦心流[1]の永田錦心の弟子で永田紫水を名乗った。その後、田宮貞楽の喜劇一座で芝居を経験。セブンとのコンビ解消後は香川アンナ、高島ホープ、鹿島洋々など、次々と相方を変え、1964年には東五九童と異色のベテランコンビを組むも1年ほどで解消。漫才を辞め、司会業をしたのち、引退。引退後は京都でキャバレーの支配人をしたという[2]。島ひろしが1978年1月に@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}インタビュー[要出典]で「セブンは3、4年前に亡くなり、ラッキーは観光会社にいるそうです。」と証言している[3]。
御園 セブン(みその セブン、1909年1月31日[1] - 没年不詳)
本名、八ツ代 喜三男[1]。東京生まれ[1]。香島セブン、矢代セブン、ヤシロセブンなど改名を繰り返した。ラッキーとのコンビ解消後、弘世 東作と改名し、宝塚新芸座所属の俳優として舞台・映画で活動。妻の吉野喜蝶も漫才師で、松葉家奴の相方だった。
コンビ略歴
脚注^ a b c d e f g h i レコード世界社(編)『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版』 レコード世界社、1940年 p.300「香島 ラッキー」「御園 セブン」 - 国立国会図書館デジタルコレクション