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香宗我部氏
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}割菱(わりびし)(武田菱(たけだびし))[1]
本姓称:清和源氏義光流一条氏流[1]
大中臣氏?[1]
中原氏?[2]
宗我部?[1]
家祖中原秋通
香宗我部氏(こうそがべし)は、日本の氏族。土佐国の豪族であり土佐七雄の一つ[4]。甲斐源氏の子孫と伝えられ、室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部氏の一族となった[5]。
歴史本拠の香宗城跡(高知県香南市)菩提寺の宝鏡寺跡(高知県香南市)
1193年、一条忠頼家臣の中原姓中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷(ふかふちごう)の地頭職となり、主君・忠頼の暗殺後にその子・秋通を養子としたのに始まる。秋通が香宗我部氏を称して初代となった[6]。なお養父の秋家は土佐山田城に移り山田氏の祖となっている[7]。
秋通の跡は宗通・成通・朝通・重通と直系で相続された。
14世紀の重通の次男・秀頼(甲斐孫四郎入道)は足利尊氏の命で長宗我部信能と共に介良庄(けらのしょう)の平定を行ったり[8]、1362年に香宗我部の一族が物部庄を得たりと勢力を拡張している[9]。15世紀の応仁の乱では上洛し、土佐国守護の細川氏率いる東軍に加わっている[10]。
秀頼ののち時秀・秀能・通秀と続いたが、その後は戦国時代の親秀まで系譜の混乱がある。
通長の子という親秀は東隣の安芸郡に拠る安芸氏と抗争しながら土佐で勢力を広げるが、大永6年(1526年)に安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失った。また西の長岡郡で長宗我部国親が勢力を拡大し、香宗我部氏は東西から圧迫されるようになった。このため親秀は国親の三男・親泰を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入った[11]。ただし親秀の実弟で養子だった秀通がこれに反対したため、親秀によって殺害されている。