首(おびと)は、ヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つ。 首長の尊称である「大人」(おおひと)に由来するものだという。 とあるのは、尊称によるものである。また、同じ『書紀』第十三で、允恭天皇の皇后、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)に対して過去に闘鶏国造(つげ の くに の みやつこ)が無礼を働いた際に、皇后が「首や、余(あれ)、忘れじ」と口にしたのは、「お前」という意味であったらしい[2]。 氏姓制度の中では下級の称号であったらしい。パターンとしては3種類あり、
概要
稲荷山古墳出土鉄剣(推定471年)の銘文より「杖刀人の首」
『日本書紀』巻第十五清寧天皇2年(481年)の「赤石郡(あかしのこおり)の縮見屯倉首(しじみのみやけ の おびと)忍海部造細目(おしぬみべ の みやつこ ほそめ)」[1]
部曲名を氏とする部民の統率者(地方伴造)に与えられる場合 - 海部首、山部首、忌部首、赤染部首など。「部」+「首」となる。
職名を氏とする帰化人(渡来人)系の氏に与えられる場合 - 西文首、馬飼首、韓鍛冶首など。1.とよく似ているが、大和朝廷との管掌的な立場から与えられたと思われる。「職掌名」+「首」となる。
屯倉の管掌者に与えられた場合。大戸部、大鹿首、新家首(「にいのみのおびと」と読む。物部氏の分流で、汗魔斯鬼足尼命
吉田晶の『出雲国大税賑給歴名帳』の研究によると、出雲郡には1.のパターンが見られ、5世紀以前には、臣 - 首 - 部のヒエラルヒーが成立していたことが窺われる[3]。
『日本書紀』によれば天武天皇 13年 (684年)の八色の姓 (やくさのかばね) により、「首」姓の一部は忌寸 (いみき) を賜姓されている[4]が、多くは旧姓のままであった。その後、奈良時代にも首姓が与えられているが、孝謙天皇の天平勝宝9歳5月 (757年) 、聖武天皇の諱 (いみな) 「首」と藤原不比等の名前を姓名に使用することを禁じたため、「史」姓とともに「?登 (ひと) 」姓に改められた。その後、称徳天皇崩御後の770年に「首」と「史」の氏族の区別がつかなくなったという理由で、元に戻されている[5]。
脚注[脚注の使い方]^ 『日本書紀』清寧天皇2年11月条、顕宗天皇即位前紀
^ 『日本書紀』允恭天皇2年2月14日条
^ 『日本書紀』(二)p451 - 452補注、岩波文庫、1994年
^ 『日本書紀』天武天皇14年6月20日条
^ 『続日本紀』巻第三十、神護景雲4年9月3日条
参考文献
『角川第二版日本史辞典』p165高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
『岩波日本史辞典』p185監修:永原慶二、岩波書店、1999年
『日本書紀』(二)(三)、岩波文庫、1994年
『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
『続日本紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1995年
関連項目
氏姓制度
カバネ
部民制
避諱
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