首都立地法_(アメリカ合衆国)
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トーマス・ジェファーソンが描いたワシントンD.C.のスケッチ、1791年3月

首都立地法(しゅとりっちほう、: Residence Act of 1790)は、アメリカ合衆国首都をどこに置くかという問題を解決した連邦法である。公式の名称は「アメリカ合衆国政府の暫定的および恒久的所在地を決める法」である。この法によって首都はポトマック川沿いに置かれることになった。
概要

連邦議会はこの首都立地法を、ジェームズ・マディソントーマス・ジェファーソンおよびアレクサンダー・ハミルトンの間の妥協の産物として成立させた。マディソンとジェファーソンは首都の立地として南部よりのポトマック河畔を推したが、議会に通すには多数派を掴んでいなかった。一方ハミルトンはアメリカ独立戦争の間に各州が負い込んでいた負債を連邦政府が肩代わりする法案である肩代わり法案を成立させようとしていた。この妥協のために、ハミルトンはポトマック河畔案に対するニューヨーク州議員の支持を取り付け、一方バージニア州の議員が肩代わり法案を支持した。

首都立地法は、ジョージ・ワシントン大統領に首都の立地場所をポトマック河畔に選定する権限を与え、その使用開始の最終期限を1800年12月と定めた。一方、フィラデルフィアが暫定首都に選定された。ワシントンは3人のコミッショナーを指名する権限があり、ワシントンD.C.で連邦政府の建物建設を監督することとされた。ワシントンはその建設に個人的な興味もあった。トーマス・ジェファーソンはワシントンに対する重要なアドバイザーであり、アメリカ合衆国議会議事堂大統領官邸の設計を募るためにデザインコンペを行うことを助けた。議事堂の建設には、資金不足などの問題があって難航し、ここで議会が初めて招集された1800年11月でも部分的な完成しか見ていなかった。
背景

アメリカ独立戦争の間、第二次大陸会議はフィラデルフィアのペンシルベニア・ステートハウスで招集されていた。イギリス軍からの脅威があったために、大陸会議はボルティモアペンシルベニア州ランカスター、同じくヨークに移動を強いられ、その後にフィラデルフィアに戻っていた[1]。独立を達成する過程で連合会議が結成され、1783年6月までフィラデルフィアで招集されたが、この6月に怒れる兵士の暴徒がインデペンデンス・ホールに集まり、独立戦争に従軍したときの給与の支払いを要求した。連合会議はペンシルベニア州知事のジョン・ディキンソンに、会議を抗議者から守るために民兵隊の招集を行うよう要請した。この暴動は後に1783年のペンシルベニア反乱と呼ばれるようになった。このときディキンソンは抗議者に同情的であり、フィラデルフィアから抗議者を排除することを拒否した。その結果、連合会議は6月21日にニュージャージー州プリンストンへの移転を余儀なくされ[2]、さらにメリーランド州アナポリス、ニュージャージー州トレントンと渡り歩き、最後はニューヨーク市に移動していた[3]。1789年、アメリカ合衆国憲法の批准とともにアメリカ合衆国議会が形成されたが、このとき以降も議会はニューヨーク市に留まり続けた[4]
首都の場所探し

どこを首都の場所とすべきかについては1783年に問題提起されていた。各州から多くの場所が首都の候補地として提案された。例えば、ニューヨーク州キングストン、ニュージャージー州ノッティンガム・タウンシップ、メリーランド州アナポリス、バージニア州ウィリアムズバーグデラウェア州ウィルミントン、ペンシルベニア州レディング、同じくジャーマンタウン、同じくランカスター、ニューヨーク市、フィラデルフィア市、ニュージャージー州プリンストンなどがあった。しかし、南部州は首都を北部の州に置くことを認めようとしなかった。2つの首都を造るという提案もあった。連合会議は1783年にメリーランド州ジョージタウン近くのポトマック河畔と、別にデラウェア川沿いの首都案を承認したが、この計画は翌年には撤回された[1]

首都の立地選定問題は数年間棚上げされ、1787年の憲法制定会議で取り上げられた[1]。この憲法の第1条第8節では次のように記されている。ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地となる地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)に対して、いかなる事項に関しても、独占的な立法権を行使すること。要塞、武器庫、造兵廠、造船所及びその他必要な建造物の建設のために、それが所在する州の議会の同意を得て購入した区域すべてに対し、同様の権限を行使すること[5]

首都立地に関する議論は1789年にアメリカ合衆国議会が招集されたときに加熱した。議員達が推す場所は2つあった。1つはジョージタウンに近いポトマック河畔であり、もう1つはライツフェリー(現在のペンシルベニア州コロンビア)に近いサスケハナ河畔だった。1789年9月に下院でサスケハナ河畔案が承認され、一方上院ではペンシルベニア州ジャーマンタウンに近いデラウェア川沿いの地を特定し、このときは合意が得られなかった[1]
妥協.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースにResidence Act of 1790の原文があります。首都立地法は1790年に連邦議会がニューヨーク市のフェデラルホールで開かれている時に成立した。

首都立地の問題は1790年の夏に再度表面化された。これと同時期にアメリカ合衆国財務長官のアレクサンダー・ハミルトンは、国の財政計画について議会通過を働きかけていた。ハミルトン案の重要な条件は、アメリカ独立戦争の間に各州が負い込んでいた負債を連邦政府が肩代わりすることだった。北部州の負債は総額2,150万米ドルに上っていたので、特に連邦政府による肩代わりの要望が強かった。連邦政府による肩代わりが認められると、南部の住人は北部の負債の一部負担を強いられることになるので、この提案を飲むことを躊躇っていた。バージニア州を含む幾つかの州はその負債のほぼ半分を償還してしまっていたので、その納税者達が利益にならないことに再度負担を強いられるべきではないと考え、ハミルトンの計画が新しい憲法で規定する政府の権限を越えているとも主張していた。当時バージニア州選出下院議員だったジェームズ・マディソンは南部の議員団を率いており、ハミルトンの計画の成立を阻もうとしていた[6]

ジェファーソンが1790年6月下旬にニューヨーク市にあるワシントン大統領の居宅でハミルトンと出遭ったときに、マディソンとハミルトンを同席でディナーに招待したいと申し出た。その結果として妥協が生まれることになり、北部の議員団は南部寄りのポトマック河畔に首都を置く案に同意し、その見返りに南部の議員は連邦政府が州の負債を肩代わりする案に同意することになった。ジェファーソンはジェームズ・モンローに宛てて、この妥協を説明する手紙を書いた[6]

アメリカ合衆国議会第1議会はこの妥協に同意し、首都立地法は僅差ながら成立した。ジェファーソンは負債処理条項のある法案に対してバージニア州選出議員の支持を取り付け、ハミルトンは首都の立地としてポトマック河畔を選ぶ法案に対してニューヨーク州選出議員を説得して賛成させた。首都立地法案は1790年7月1日に上院で賛成14票対反対12票、7月9日に下院で賛成31票対反対29票で可決された[7]。連邦政府肩代わり法案は1790年7月16日に上院で僅差で成立し、下院は7月26日に通った[8]


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