首実検
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首実検(くびじっけん)とは、前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもあった。夏期においては穂垂首(損傷の著しい首)は軍監による確認に止め、大将には見せない場合もあった。

大将や重臣が、討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認する。首級の確認は、寝返りした、または捕虜となった敵方に確認させることもあった。
呼称

呼称としては、敵の大将、貴人の検分は対面、歩兵の雑兵らに対するものを見知といい、「首実検」とは物頭や諸奉行クラスの騎馬武者の首のみを検分(実検)することである[1]。しかし広義には、首の検分の総称として「首実検」という語が使用されているのである[2]

たとえば『雍州府志』十 陵墓 には「凡本朝軍士、得敵首謂取首、或謂高名、依忠功高得武名之謂也、敵之所随身物、或冑或刀等物、添首取之来、謂分取高名、倭俗一種謂一分、依之一種分来、故称分取、敵首携帰入主君之一覧、是謂実検、蓋検軍実之義乎、記首多少之書謂首帖」という。

また『軍礼抄』対面の首の事 には「一敵の大将の首を我大将の御覧するをは実検とはいはす対面と云也」という。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに越後軍記の原文「頸実検の作法」があります。

また『越後軍記』三 景虎問頸実検之法式事には「一 頸対面ト申ハ敵ノ大将貴人高位ノ頸ヲ見給フ是ヲ対面ト云ヘリ」「一 実検トハ諸ノ者奉行等総シテ甲冑ヲ帯スル騎兵ノ頸ヲ見給フヲ云ナリ歩立ノ士葉武者ノ頸ヲ双置見給フヲ見知ト云ナリ(首実検トハ総名ト知ルヘシ)」「一 見知ト云ハ下輩ノ者ナリ」という。

また『頸対面之次第』には「敵将ノ頸ヲ討取大将其首ヲ見ルヲ実検ト総テハ云ヘ共互ヒニ劣ラヌ将ノ頸ヲ実検トハイハテ頸対面ト云也勝負ハ将ノ運ニ依テ討事モアリ又討ルゝ事モ有ヘシ将ノ運ニ依テ也将ノ礼儀ハ死シテモオトサゞルハ武士ノ道トスルナリ」「口伝ニ云ク検知ト云ハ大将ノ頸ニアラス連枝ノ首重キ人体ノ時検知ト云フ」という。

また『首検知之次第』には「一 大将之連枝或ハ幌武者再拝採等之首ヲ見ル是ヲ検知ト称ス備経営等対面ノ如シ」「一 葉武者白歯者雑兵等之頸ヲ見ルヲ配見ト号ス」という。
化粧

首実検の前には、武士の婦女子により首に死化粧が施された[3]。武士は自身の首は敵将に供せられることを覚悟し常日頃身だしなみに気を使った。武士が薄化粧をしたり香を施すことは軟弱とは見なされなかった。伊勢貞丈『軍礼抄』に、「首を水にて能く洗ひ、血又は土などを洗ひ落し、髪を引きさき、もとゆひに髻を高くゆひ上ぐべし。もし、かねつけおしろいべになどつけたる首ならば、其の如くにこしらへ〔ママ〕べし、顔に疵付きたらば米の粉をふりかけて、疵をまぎらかす也、紙札に首の姓名を書いて付くる也」とある。

髪は普通時よりも高く結い上げ、髪を結うにははじめから水を付け、右から櫛をつかい、櫛の「みね」で立て、元結いを櫛で4度たたいて結いおさめる。普段、櫛の「みね」を髪に当てることを忌みきらうのは、ここからきたものである。歯を染めてある首には、「かね」をつける[4]。ウィキソースに信長公記の原文「義景浅井下野浅井備前三人首御看之事」があります。

天正2年(1574年)の正月、織田信長浅井久政長政父子と朝倉義景の3人の首(頭蓋骨)を薄濃(はくだみ)にしたものを酒宴で披露した。桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評しているが[5]宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している[6]
場所

首実検は寺その他で行われる。『軍礼抄』には「首実検の場所は其所の寺なとにて有へし首御覧する人は門の内首御目にかくる人は門の外にあるへし門もなき所は幕をはりて中を巻上げて内外の隔をなす也敵来て首をうばひ返す事も有へき歟の用心をきひしくすへし」という。
首台

首台には、そば折敷(おしき)、つまり角を切らない折敷をもちいる。ふつうのそば折敷よりも手厚くして、檜をつかう。広さは8寸4分四方、厚さ9分、高さ約1寸2分。脚は3で、刳形は無い。箱の蓋の桟のように鉄釘で3箇所、打つ。首を置き据えるには、柾目の方を先にして、木目を竪にして置く。ここから、普段、竪に木目を人に向けて膳を据えることを「えびす膳」といって忌みきらう。


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