logo館林城
(群馬県)
本丸跡
別名尾曳城
城郭構造梯郭連郭複合式平城
天守構造なし(三階櫓で代用、非現存)
築城主伝・赤井照光
館林城(たてばやしじょう)は、群馬県館林市城町3(上野国邑楽郡館林)[1]にあった戦国時代から江戸時代の日本の城。尾曳城(おびきじょう)ともいう。館林市指定史跡[2]。 15世紀に築かれたとされる。ただ、築城時期・築城者には諸説ある。天正年間10万石で入城した徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。城沼を濠として利用、本丸以下7郭 (約43ha) 。現在、一部の遺構を残しているのみで、跡地に市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などが建てられている。 江戸時代に書かれた『館林記』によれば、大袋城(現館林市花山町)主であった赤井照光 現在確認されている館林城について書かれた最古の文献は、享徳の乱の中、文明3年(1471年)に長尾景信・景春父子、長尾忠景ら上杉軍が、足利成氏方の赤井文三・文六の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である[4]。 永禄5年(1562年)2月17日、上杉謙信に従った長尾景長により、館林城は落城。城主赤井文六は追放された。館林城に入った長尾景長は4月5日には家臣への知行宛行いをしている[5]。 永禄9年(1566年)に上杉謙信が臼井城の戦いで敗れた結果、東上野の領主達は北条氏に寝返り、長尾景長もこれに同調した。越相同盟で巻き返しを図った上杉謙信は永禄13年(1570年)には佐野城を攻め、その恩賞として館林城を広田直繁に与えた。長尾景長の跡を継いだ長尾顕長により館林城は取り戻されたとみられ、顕長は元亀4年(1573年)に雷電神社の社殿の造営を行っている[6]。 天正12年(1584年)、北条氏照の軍勢が館林領に侵攻し、翌年初には館林城の明渡しが行われ、長尾顕長は北条氏直と対面して服従を誓い赦免を受けて足利へ退いた。館林地域は北条氏の直轄領となり、『館林城主代々覚書』等の記録によれば館林城代を韮山城主北条氏規が兼務、城将として南条昌治が支配したという[7]。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、館林城も落城した。『関八州古戦録』等の軍記物では石田三成が落城させたことが伝えられるが、石田三成が小田原包囲から忍城攻撃に向かったのが5月5日であり、佐竹義久の4月29日付書状により同日までに館林城が落城していることが判明するため、史実ではない[8]。 同年、徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった[9]。 江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。 かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。 宝永4年(1707年)六代将軍徳川家宣の弟松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。1718年には再建費のための増税に苦しんだ農民により館林騒動 城の建物の大半は明治7年(1874年)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。 家名、説明、藩主名、在任期間、石高
概要
歴史・沿革
室町時代
戦国時代
江戸時代
近現代
歴代城主
榊原氏三代続いたが、寛永20年(1643年)に陸奥白河に転封したため、その後館林領は一時天領となった。
榊原康政 天正18年(1590年) - 慶長11年(1606年) 10万石
榊原康勝 慶長11年(1606年) - 元和元年(1615年) 10万石
榊原忠次 元和元年(1615年) - 寛永20年(1643年) 11万石
大給松平家正保元年(1644年)、遠江浜松から老中松平乗寿が6万石で館林城に入り、その跡を乗久が継いで寛文元年(1661年)に下総佐倉に転封した。
松平乗寿 正保元年(1644年) - 承応3年(1654年) 6万石
松平乗久 承応3年(1654年) - 寛文元年(1661年) 5.3万石
館林徳川家4代将軍徳川家綱の弟綱吉が10万石の加増を受け25万石で入封した。延宝8年(1680年)に綱吉が家綱の養子になって5代将軍になると、その子徳松が家督を継いだが、天和3年(1683年)に徳松が急死すると廃藩となって再び天領となった。この時、城は壊されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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