養蜂業
[Wikipedia|▼Menu]
蜜を採取した様子を描いたアラニア洞窟洞窟壁画(紀元前15000年頃)

養蜂(ようほう)とは、蜂蜜あるいは蜜蝋花粉をとるためにミツバチ飼育することである。また、虫媒により、農作物の受粉を確実にするためにも使われる。

国際連合は、18世紀のスロベニアの養蜂家アントン・ヤンシャの誕生日に合わせて、5月20日を「世界ミツバチの日」(World Bee Day)としている[1]
歴史「蜂蜜」も参照
先史・古代

ローマ神話によれば、人間に養蜂を教えたのはアリスタイオスである。蜂蜜と人類の関わりは古く、エバ・クレーンの研究によれば、1万年前には既に採蜜が始まっていた[2]。その証拠にスペインアラニア洞窟で発見された紀元前1万5千年頃の洞窟壁画に蜂の巣から蜜を取る女性の姿が描かれている[3]。壁画からは燻煙を使って蜂を不活性化する方法を使っていたことも伺われる[4]メソポタミア文明楔形文字にも蜂蜜に関することがらが記載され[要検証ノート][3]古代エジプトの壁画に養蜂の様子が描かれている[3]ミケーネ文明遺跡から出土した粘土板に刻まれたミケーネ文字にも蜂飼いに関する記述が見られる[5]

古代ギリシア哲学者アリストテレスは著書『動物誌』にて、養蜂について記述している。そこでは、ミツバチが集める蜜は花の分泌物ではなく、花の中にたまった露であると述べている。当時の養蜂は、うろに野生の蜂の巣が作られている木を見つけ、うろの部分を切り出し家の近くに持ち帰り、夏の初めと終わりに蜂蜜を収穫するというものだった。蜂を眠らせるには布切れを燻らせたり、漏斗(じょうご)型の壺から牛の陰嚢や樹脂、香草を燻らせた煙を吹きかけたりした。

ローマ時代には蜂が狭い場所に巣を作る習慣を利用し、天然の環境を模した巣箱(養蜂箱)が使われるようになった。各地で色々な素材の巣箱が使われたが、ステップ地方の遊牧民が考案した持ち運びに便利な編み製の巣箱は西ヨーロッパにまで広まった。

民族大移動以後、養蜂は一時的に途絶えてしまったが、カール大帝は農家に養蜂を奨励し、同時に養蜂による産物を蜂蜜税として物納させた。

中世ヨーロッパでは、照明用のロウソクの原料である蜜蝋をとるために、キリスト教修道院などで養蜂が盛んに行われた。蜂蜜税による養蜂の統制は封建制の特権の一つとなった。養蜂は主従の誓いを立てた「アヴィレオール」「ビグル」などと呼ばれる森番が行い、密猟は厳しく罰せられた[6]
日本養蜂史

日本における養蜂についての記述の始まりは、『日本書紀』『大日本農史』等によれば皇極天皇2年(643年)である[7]。「是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。」(倭国の人質として来た百済の王子・豊璋が、三輪山で蜜蜂を放して養蜂を試みたが、失敗したという記述である)[7]平安時代には宮中への献上品の中に蜂蜜の記録がある。その末期には『今鏡』『今昔物語』でハチが飼われている記述がされており、それをニホンミツバチとする説もあるが、定かではない[7][8]江戸時代には巣箱を用いた養蜂が始まったとされる。明治時代に入り、西洋種のミツバチが輸入され近代的な養蜂器具が使われるようになり、養蜂が盛んになった。ちなみに、日本初の西洋種飼養は1877年に東京の新宿試験場(現在の新宿御苑)で行われたとされている[9]

太平洋戦争終戦後は、高度成長期郊外開発が進んだ影響や、養蜂家の高齢化に伴い、1979年をピークに都市部周辺農家の廃業や転業が相次いだ。また、関税が大幅に引き下げられたり、2003年に合意した対メキシコ自由貿易協定(FTA)にて蜂蜜関税が撤廃され安価な輸入品が急増したため、日本国内の養蜂産業は1980年代から2000年代にかけて次第に衰えた。だが、天敵が少ない都心のビル屋上などに巣箱を置き、公園や皇居の花から蜜を集めて蜂蜜をつくる「都市養蜂」が東京などで行なわれ始めた[1]ことや、国産はちみつが見直され、国民に養蜂への関心が再び高まり始めたことから、ミツバチの飼育戸数は、2010年代以降は再びぶり返し、1970年代水準までV字回復を遂げている[10]ミツバチの飼育戸数の推移[10]



近代養蜂ミツバチを採集する養蜂家

古代から中世にかけての養蜂では、蜂蜜を得るには蜂の巣を壊して巣板の一部を取り出すしかなく、それによって飼育コロニーは壊滅する可能性があった。1669年以前から使われていたと考えられるギリシャの伝統的な巣箱では、ミツバチを殺すことを回避できるようになっていた[11]。1768/1770年にThomas Wildman は可動式巣枠を説明しており、ミツバチを殺さず管理できる手法を予見している[12]

1853年アメリカ合衆国のラングストロス(英語版) (L. L. Langstroth) が自著『巣とミツバチ』"The Hive and the Honey Bee"において、継続的にミツバチを飼育する技術である近代養蜂を開発した。可動式巣枠を備えた巣箱や、蜜を絞るための遠心分離器の発明により、近代的な養蜂業が確立した。現在に至るまで養蜂の基本的な手法はラングストロスの方法と変化していない。

アメリカ合衆国では、虫媒花である農作物の受粉を請け負う大規模な養蜂企業もあり、蜂の状態や採蜜の管理にセンサー人工知能(AI)も導入されている[13]

2015年、オーストラリアで穴の後ろに採取用の管が付いて継続的に蜂蜜が流れ出すよう設計されたプラスチック製の巣箱(Flow Hive)が開発された[14]
近代養蜂に貢献した人物
19世紀になると、養蜂を発展させる人間が爆発的に増加した。

フランソワ・ユーベル - 盲目でありながら、助手の協力の下、ミツバチの生態記録を付け、ライフサイクルとコミュニケーション方法についての記録を残した。

Johann Dzierzon - 数々の実験的な巣箱を設計し、近代に使われる巣箱の原型を作った。

Moses Quinby - 1873年に蜂除けの燻煙器を発明した[15][16]

養蜂の方法

養蜂では、巣礎と呼ばれる厚板を直方体の箱に8 - 10枚並べる。自然の巣をまねて、巣礎は鉛直面に平行に並んでいる。巣礎はミツバチが巣板を形成する土台となる。形状は縦横比が1対2程度の長方形の中空の木枠にすぎないが、壁面の一つには、蜜蝋とパラフィンを用いた厚紙状の土台を張っておく。土台にはあらかじめ六角形の型が刻まれているため、ミツバチが巣を作る足がかりとして適している。

蜂蜜を貯蔵するのは自然の状態でも養蜂においても巣板の上部に限られており、下部には卵を孵し、幼虫を育てるための領域が存在する。下部には花粉を貯める領域も存在する。ミツバチは、六角柱に蜂蜜を貯めた後、蜜蝋で蓋を貼る。

一種類の花の開花時期のピークはそれほど長くなく、セイヨウミツバチは1か所に集中して蜜を集める習性があるため、特定の花の蜜だけを集め、「xxx花蜂蜜」と言うものを得ることが出来る(アカシア蜂蜜、レンゲ蜜など)。

自然の状態では、秋の終わりから春にかけて、花がほとんど存在しない時期には貯蔵した蜂蜜を消費する。春の初めは幼虫が孵化する時期であるため、蜂蜜の量が最も減る時期である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef