養蚕業
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「養蚕」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「養蚕 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
糸車養蚕用竹かご養蚕台大日本蚕糸会と会頭の松平正直男爵。明治時代繭を分ける。大正初期

養蚕業(ようさんぎょう)は、カイコ(蚕)を飼ってそのから生糸()を作る産業である。遺伝子組み換えカイコを用いた医薬素材の生産や、カイコを利用して冬虫夏草(茸)を培養するといった新しいカイコの活用も進んでいる。

養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し繭を生産する。繭を絹にするために製糸工場で繭から生糸へと加工され、生糸をさらに加工して絹織物などの繊維になる。なお、日本では蚕を使ったタンパク質生産研究が主になっているが、培養細胞によるタンパク質の生産効率の高まりとともに、蚕を用いる優位性は下がってきている。

かつて養蚕業は日本の主要産業であった。しかし、世界恐慌以降の海外市場の喪失、代替品の普及などで衰退していった[1]。繭の生産は中国インドブラジルなどで盛んに行われている。

現在、農研機構を中心に『蚕業革命』として養蚕業の復興を期して新規養蚕技術の開発・研究が行われている[2]
歴史

養蚕の起源は中国大陸にあり、浙江省の遺跡から紀元前2750年頃(推定)の平絹片、絹帯、絹縄などが出土している[3]。殷時代や周時代の遺跡からも絹製品は発見されていることから継続的に養蚕が行われていたものと考えられている[3]。系統学的な解析では、カイコは約5000年前までにクワコ(Bombyx mandarina)から家畜化されたと考えられている[4]

中国では養蚕技術の国外への持ち出しは固く禁じられており[3]、特にによる中国統一(紀元前221年)以後は統制が強くなったと考えられている[5]。また、2週間足らずで孵化してしまう種(卵)の運搬や餌となる桑の調達などの問題もあり、長い間、養蚕技術は中国大陸の外へ出ることはなかった[3]。一説には1世紀に中国からホータン王国の国王に嫁いだ婦人が桑と蚕の種を棉帽子の中に入れて持ち出したのが最初といわれている[6]

朝鮮半島(楽浪郡)へ伝播したのは前漢の頃(紀元前108年頃)とされ、同じ中国でも南部の雲南省には後漢の頃に伝わった[3]。インドについては早くから文明があり特有の蚕もあるため養蚕技術が中国から伝わったものか単独で発生したものかはわかっていない[6]。中国からヨーロッパへの伝来は紀元後の6世紀頃とされる(東ローマ帝国の養蚕伝来[3]
日本での歴史養蚕する香淳皇后
1955年(昭和30年)6月「日本における養蚕」も参照

日本へは弥生時代中国大陸から伝わったとされる[7]による中国統一(紀元前221年)によって統制が厳しくなったことから、蚕種はそれ以前の時代に船で運ばれたと考えられており、日本が桑の生育に適していたこともあってかなり早い時期に伝来した[5]。養蚕の伝播経路については諸説ある。朝鮮半島への養蚕技術の伝播との比較などから、中国大陸(江南地方)から日本列島(北部九州)へ直接伝わったとする説[8] などがある。

福岡県の有田遺跡(紀元前200年頃)からは平絹が出土しているが、当時の中国の絹織物とは織り方が異なることから日本列島特有の絹織物が既にあったと考えられている[3]。記紀には仲哀天皇の4年に養蚕の記録がある[3]

195年には百済から蚕種(カイコの卵)が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、養蚕技術の導入が行われた。奈良時代には全国的(東北地方や北海道など、大和朝廷の支配領域外の地域を除く)に養蚕が行われるようになり、租庸調の税制の庸や調として、絹製品が税として集められた。

しかしながら国内生産で全ての需要を満たすには至らず、また品質的にも劣っていたため、中国からの輸入江戸時代に至るまで続いた。代金としてのの流出を懸念した江戸幕府は養蚕を推奨し、諸藩もが殖産事業として興隆を促進した。結果、幕末期には画期的養蚕技術の開発・発明がなされ、中国からの輸入品に劣らぬ、良質な生糸が生産されるようになった。日本が鎖国から開国に転じたのはこの時期であり、生糸は主要な輸出品となった。

江戸時代には、民間において様々な養蚕技術書が出版された。著名なものとしては、1803年(享和3年)に上垣守国出石藩の協力を得て『養蚕秘録』を出版した。この書は国内外で高く評価された。またシーボルトによって同書は持ち出されて『Yo-san-fi-rok』として翻訳されている[9]。また、1840年(天保11年)には中村善右衛門が当時の新技術である体温計を応用して『蚕当計』を考案し、『蚕当計秘訣』を発行した[10]。この技術は当時は勘などに頼っていた養蚕を、温度管理によって安定させる『温暖育』の普及によって改良することになった。

明治時代に至り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出した。養蚕業・絹糸は「外貨獲得産業」として重視され[1]、日本の近代化富国強兵)の礎を築いた。科学技術研究とともに養蚕技術の発展は行われた。著名なものとしては、東京帝国大学の外山亀太郎によるメンデルの法則が動物でも成り立つことの証明・カイコにおいて品種間で交雑することによって、頑健で糸の品質が良いカイコが作出できるという発見がある。皇后は、神事として毎年「ご養蚕」を行っているが、これは1871(明治4)年3月14日、昭憲皇后によって始められたものである[11][12][13]。1873年4月28日、蚕種取締規則が定められる(太政官)。1875年2月22日、蚕種取締規則廃止、蚕種製造組合条例・組合会議局規則が定められる(太政官布告)(1月1日遡及施行)。1878年5月4日、蚕種製造組合条例・組合会議局規則 廃止。

一代交雑種(雑種第一代、F1)における雑種強勢の発見はその後すぐに製糸業へと応用された。片倉製糸を率いる今井五介などが中心となった「蚕種統一運動」による「一代交配蚕種普及団」によって民間主導による蚕種製造が急速におこなわれ、一代交雑種の普及・生糸の品質向上につながった[14]。現代では一代交雑種の発見・普及を記念する碑が松本市の「蚕糸記念公園」に建てられている[15]

日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称したほどである[16]。もうひとつの背景としては、同時期においてヨーロッパでカイコの伝染病微粒子病)の流行により、養蚕業が壊滅したという事情もあった。ルイ・パスツールは、微粒子病が原虫由来であること・母蛾検査によって食い止めることができることを発見したが、ヨーロッパにおける養蚕業の衰退を止めることはできなかった。1900年頃には日本は中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になり、1917年には『大日本蚕業家名鑑』が出版されている[17]

平行して1895年には綿糸、1918年には合成繊維(スフ・レーヨン)の会社も設立されていたが、養蚕業は1935年前後にピークを迎える。


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