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飯香岡八幡宮
拝殿
所在地千葉県市原市八幡1057-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度32分15.11秒 東経140度7分3.63秒 / 北緯35.5375306度 東経140.1176750度 / 35.5375306; 140.1176750
主祭神誉田別尊
息長帯姫尊
玉依姫尊ほか7柱
社格等上総国総社
旧県社
創建(伝)白鳳年間(675年)
本殿の様式入母屋造銅板葺
例祭旧暦8月15日
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飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)は、千葉県市原市八幡にある神社である。「八幡」の地名の由来となった。房総の魅力500選、ちば遺産100選にも選定されている。 飯香岡八幡宮として鎮座する以前は六所御影神社と称したといわれ、白鳳年間(675年)、一国一社の八幡宮として勧請されたことに起源を持つという。天平宝字3年(759年)、全国放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、国府司祭の放生会を現在に伝える上総国の古社の一つである。中世以降、上総総社としての機能を持つ。その名残から国府総社と尊称されている。
概要
所在地
千葉県市原市八幡1057-1
最寄り駅はJR内房線八幡宿駅。西口から徒歩。
祭神
誉田別尊
息長帯姫尊
玉依姫尊
ほか7柱
歴史
徳川家康により、所領150石を安堵され、10万石の格式を与えられ明治に到る。旧社格は県社。
昭和43年(1968年)、本社の別宮として辰巳台神社が祀られた。
略年表(『飯香岡八幡宮由緒本記』による)
景行天皇40年(110年)頃 - 日本武尊東征の時、六所御影神社で休息したという。その際、社人が尊に食事を捧げたところ、飯の香りを賞した故事により、御影山を「飯香岡(いいがおか)」と呼ぶことになったという。
天武天皇白鳳4年(675年) - 勅使桜町季満・奉幣使菅原時春が下向し、神殿を飯香岡に創建して誉田別尊以下三神を奉斎する。その際、勅使桜町季満が詠んだ和歌「君がため今日植ゑそへしちちの木に幾世へむとも神やどるらむ」
天平勝宝元年(749年) - 社殿を造営する。
天平宝字3年(759年) - 勅命により一国一社の八幡宮となり、国府総社と称せられる。
元慶3年(879年)3月 - 朝廷により社殿が造営される。
天慶3年(940年) - 社殿を造営。
寛弘5年(1008年) - 鎮守府将軍源頼光により社殿が造営される。
康平7年(1064年) - 鎮守府将軍源頼義が造営料として米1000石を寄進する。
治暦元年(1065年) - 源頼義の寄進により、社殿を造営する。
寛治5年(1091年) - 源義家が鉄製矢筒一箇と矢鏃二本を寄進する。
保元3年(1158年)10月 - 石清水八幡宮諸国荘園官符中に「上総国市原別宮」の記事あり。
承安元年(1171年) - 千葉常胤、武運長久・家門繁栄を祈願し、社殿の修理を行う。
治承4年(1180年) - 源頼朝、太刀一振を奉納する。
同年12月 - 所領は、市原荘八幡郷内一二町、菊間郷内八町、市原村内五町、府中内六町、郡元村内七町、村上村内六町、相写村内六町、山木村内五町、大厩谷村内五町、海上軍伊隔荘小野田郷内四町五反、皆吉村内四町三反、久吉村内五町三反、畔蒜郡菅生荘伊豆嶋村内五町、大成村内五町、市原郡市東荘相角村内五町八反、馬場村真生五町二反、山辺郡神房村内五町、宮谷村内五町、夷隅郡伊保田荘藤村内五町、筒森村内五町五反、夷北荘萩原村五町二反、今関村内五町、南夷南荘江渡村内五町、石神村内五町、夷隅郡荒田野荘国府台内五町八反、荒田野内五町四反等であった。
同年12月 - 安達盛長、市東荘を奉納する。
文治5年(1189年) - 源頼朝、奥州藤原泰衡征伐のため、武運長久を祈願し安達盛長を奉幣使として太刀一振・甲冑一領を寄進する。
建久3年(1192年)8月 - 源頼朝、飯香岡八幡宮を保護するため、府中・五井・惣社・市原・菊間・八幡郷へ禁制の制札を掲げさせる。
建久4年(1193年)8月15日 - 源頼朝、天下掌握の祈願のため宮殿を新造する。この時の名代藤原親能・中原仲業・奉行和田義盛・神主市川氏誉田斎宮藤原義重・大工棟梁修理介正広。
正嘉2年(1258年)3月 - 市東荘領主左右衛門尉藤綱、祈願成就のため太刀一振を奉納する。
弘安4年(1281年)2月 - 征夷大将軍惟康親王、北条宣時に幣帛を奉ぜさせ、太刀一振・弓一張を奉納する。
同年6月 - 蒙古襲来(元寇)により、国家安穏・武運長久の祈祷の下知をうける。
同年9月 - 蒙古追討の祈願を賞され、祭祀を厳重に執行するように仰せられる。
14世紀前半12月13日 - 鎌倉幕府管領長崎高資、大輔律師俊珎を上総国市原荘八幡宮(飯香岡八幡宮)別当に補任する(尊経閣文書)。