飯野陣屋
[Wikipedia|▼Menu]

logo飯野陣屋
千葉県
飯野陣屋三の丸南側外濠
城郭構造陣屋
天守構造なし
築城主保科正貞
築城年慶安元年(1648年)?
主な城主保科氏
廃城年明治4年(1871年
遺構外濠、土塁、内濠
指定文化財なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度19分11秒 東経139度51分52秒 / 北緯35.31972度 東経139.86444度 / 35.31972; 139.86444
テンプレートを表示

飯野陣屋(いいのじんや)は、千葉県富津市にあった陣屋飯野藩の藩庁が置かれた。
概要

飯野陣屋は飯野藩の藩庁が置かれていた、富津市の小糸川下流に広がる沖積平野上にある陣屋である。構造的には本丸・二の丸・三の丸がある東側の内邸(うちやしき)と西側の外邸(そとやしき)に分けられる。

創建年代については諸説あるが、飯野藩の藩主であった保科氏が加増の結果、大名となった1648年に創建されたとの説が有力である。総面積は約17万6000m2と陣屋としては規模が大きく、日本三大陣屋のひとつとされており[1]、また構造的に防衛を考慮された城郭的色彩が強い点などから、江戸時代以前に既存の城郭があって、飯野藩の成立後に増改築がなされたとの説もある。

廃藩置県後、飯野陣屋は一時飯野県の県庁として利用されたが、飯野県が木更津県に合併された後は利用されることもなく、陣屋内に居住していた旧飯野藩士もやがて離散し、遺棄された。陣屋当時の建物はすでに無いが、濠と土塁は良く残されており、特に保存状態の良い内邸を囲む外濠が千葉県の史跡に指定(1967)されている。
飯野陣屋の構造飯野陣屋の敷地内から見た三の丸北側土塁

飯野陣屋は富津市の小糸川下流に広がる標高約7メートルから8メートルの沖積平野上にある。後述するように飯野陣屋は古墳時代に築造された内裏塚古墳群の中に造られており、古代の古墳は沖積平野上に残るかつての砂丘跡である微高地に造られたと考えられているが、飯野陣屋全体としては築造当初、敷地の多くは低湿地帯であったと考えられている[1]。陣屋の規模は南北約280メートル、東西約350メートルあり、陣屋としては大規模で、飯野陣屋は越前敦賀陣屋、長州徳山陣屋と並んで日本三大陣屋の一つに数えられていたという。陣屋は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸がある東側の内邸(うちやしき)と西側の外邸(そとやしき)に分けられる[2]
内邸

内邸は全体を千葉県史跡に指定されている幅5メートルから6メートル、深さ1.2メートルから2メートルの外濠が囲み、外堀の内側には高さ約2メートルの土塁が築かれている。この外濠と土塁は現在もかなり良く残っている。全体の面積は外濠の面積を含め約128000m2である。元来、内邸への入り口は本丸東側の大手門、三の丸西側の搦手門、そして本丸南側の門の3か所のみであったが、現在はもっと多く、7か所から内邸部分に入ることが可能になっている[3]

飯野陣屋の本丸と二の丸、三の丸は主軸方向にずれが見られ、本丸と二の丸、三の丸はその築造時期が異なるのではないかとの説もある[4]
本丸本丸東側にある大手門跡

飯野陣屋東南部、東西約210メートル、南北約160メートルで、面積は約34000m2ある。本丸の北部、西部を取り囲むように二の丸があり、本丸の東部、南部は飯野陣屋の内邸を囲む外濠と土塁に囲まれ、本丸と二の丸の間にもかつては内濠と土塁があったが、現在ほとんど消滅してしまっている。本丸内部には藩主が住む邸、藩庁があった。本丸の東側には大手門があり、また本丸南側にも門があった[5]

大手門は藩主の邸へ向かう道筋を防御するために、門内に幾重にも折れ曲がった枡形と呼ばれる四角形をした土塁が造られており、複雑な造りとなっていた。枡形も現在そのほとんどが消滅している[6]

また幕末から明治期の本丸内には、大手門内側の枡形の近くに池があったことが古地図などからわかるが、この池は発掘の結果、18世紀以前と考えられる古い時代の飯野陣屋の濠跡であったことが判明しており、飯野陣屋は改築がなされたことがあることがわかる。また後世池となった濠が造られた後に、大手門内側の枡形が造られたことも判明したが、大手門、大手門枡形の築造時期は今のところ不明である[7]
二の丸

二の丸は本丸の北側と西側とを囲むような鍵形をしており、面積は約31000m2である。本丸と二の丸との間と同じように、二の丸の外側にある三の丸との間にも内濠があったが、現在は一部残存するものの、ほとんど埋め立てられている。なお二の丸西側の内濠は、6世紀末に築造されたとされる前方後円墳三条塚古墳の外側の周濠を利用して築造されたと考えられている[8]

二の丸東側外側には枡形の張り出し部分があり、それと対応するように二の丸東側にも張り出し部分が見られる。この張り出し部分から北西方向に向かって、当時の街道筋が伸びており、張り出しは飯野陣屋の街道筋に面する部分の防御を強化するために設けられた施設と考えられている[9]

二の丸の敷地内には主に上級藩士の邸が並んでいた。その他、二の丸には煙硝蔵と飯野神社があった。煙硝蔵は、終末期古墳の方墳である稲荷塚古墳があった場所に建てられた[4]。飯野神社は本丸側になる東側以外の三方向を土塁で囲まれていたが、現在は三条塚古墳に隣接する西側の土塁のみ、痕跡が残っている[8]
三の丸三の丸西側の搦手門跡

三の丸は二の丸の北側と西側とを囲むような鍵形をしている。面積は約51000m2で、内邸では最も広い。三条塚古墳の墳丘南側には二の丸と同じく上級藩士の邸が並び、三の丸西側には搦口に当たる内邸への入り口があった。この入り口から南側は防御のために土塁を二重にしていた。しかし三の丸の多くは雑木林であったようで、西側では墳丘長122メートルの前方後円墳である三条塚古墳が大きな面積を占めていた[10]

三条塚古墳は当初、飯野陣屋の物見櫓的な役割を果たしていたと考えられている。古墳の東側墳丘の一部を崩して、江戸時代末期、藩校である明進館が建てられた[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef