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将棋棋士「飯野健二」とは別人です。
いいの けんじ
飯野 賢治
飯野賢治(2007年)
生誕 (1970-05-05) 1970年5月5日
日本・東京都荒川区
死没 (2013-02-20) 2013年2月20日(42歳没)
死因心不全
出身校城西大学付属川越高等学校中退
職業ゲームクリエイター、経営者、随筆家
著名な実績『Dの食卓』『エネミー・ゼロ』
子供2男
公式サイトhttps://fyto.com/eno/
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飯野 賢治(いいの けんじ、1970年5月5日 - 2013年2月20日)は、日本のゲームクリエイター、実業家。
有限会社EIM(英語版)、株式会社ワープ、株式会社スーパーワープ、株式会社フロムイエロートゥオレンジなどで代表取締役社長を務めた。 東京都荒川区出身。「賢治」という名前は『宮沢賢治』からとったと父親が語っていたという[1]。英才教育の幼稚園に入るが、小学校2年で母親が失踪し、その後父親と2人暮しとなる。 小学校3年の頃初めてパソコンを購入。音楽が好きだった為、自動演奏させる為、PC-6001を買ったが、当時好きだったアーケードゲームを移植する為にすぐまたPC-8801を買い、プログラムを覚えていったという。アドベンチャーゲームを作って、友達によく貸していた事もあったという。 小学校5年の時に、埼玉県に引っ越し、埼玉県で育つが学校に行く時を除いてほとんど東京に行っていたと言う。 テレビで見た中村光一がプログラムのコンテストで賞を取った事に影響を受け、自分が作ったゲームをゲームコンテストに出し、小学校5、6年の頃に作った『十和田湖殺人事件』がゲームコンテストに入賞した。また小学校6年の時に学校が嫌になり2週間ぐらい学校に行かなくなるなど、一時期不登校になった事もあるという。城西大学付属川越高等学校を中退後、約1年のバイト生活を経て大学入試資格検定を受けるもあえなく失敗する。 1988年にゲーム制作会社の有限会社インターリンクに入社する。
来歴
生い立ち
ゲーム業界へ
株式会社ワープ設立
Dの食卓
1994年に株式会社ワープを設立。翌1995年に代表作の『Dの食卓』(3DO版)をリリースし、「マルチメディアグランプリ'95 通産大臣賞」を受賞。
風のリグレット
1997年にも画面表示一切無し、音だけでプレイするゲーム『リアルサウンド ?風のリグレット?』の発売。人気脚本家坂元裕二を迎えて「300万本売れるRPG(仮題)」の製作予定を発表した。企画はその後、頓挫している。
エネミーゼロ
1997年には、宇宙船内にて姿の見えないエイリアンと戦うローラ三部作の第二弾『エネミーゼロ』を発表。制作発表会において、後述する『エネミー・ゼロ事件』を起こして、ソニーと決別してセガサターンに移行した。
Dの食卓2
1999年には、雪山での戦いを強いられるローラ三部作最後の作品である『Dの食卓2』を発表している。
一時期はゲームデザイナーの代表として積極的にマスコミに露出し、ラジオ番組のレギュラーを持つなど、時代の寵児的扱いを受けた。