いいの きちさぶろう
飯野 吉三郎
生誕1867年8月30日
日本 美濃国恵那郡岩村
死没 (1944-02-03) 1944年2月3日(76歳没)
職業宗教家
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飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶応3年8月2日)[1] - 1944年2月3日)は美濃国(現岐阜県)の岩村藩士族出身の宗教家。皇室や政界・軍人に取り入り、後に「日本のラスプーチン」と呼ばれた[2]。 岩村藩士・飯野益衛の三男として生まれる。祖父の閑斎は、60石の御馬廻と武具奉行を務め、曾祖父の三右衛門は御側御用人を務め100石取という小藩では上級武士に属する家系の出身であったが、廃藩置県により家職を失う。また、若いときに父が病没し、二人の兄は故郷の岩村に留まって教育者となったが、吉三郎は岩村に留まることをよしとせず、20歳の時に上京して麹町に住み、呪術を学んで新宗教を興して行者となった。元々大柄で独特の音声を発することから話術に妙な説得力があり、人を威圧するのに充分であった。やがて、同郷の有名人であった下田歌子を頼り、その紹介で皇室や政界に食い込むようになる。 特に1904年(明治37年)に児玉源太郎の依頼に対し、日本海海戦での勝利を時間場所まで正確に当てたことから、多数の貴顕の信任を得るようになる。それで得た金を金原明善と組んで満州へ投資し、これも当たったことから莫大な財産を得る。それを元手にし、東京・穏田に1,000坪の土地を購入してここに新興宗教団体「大日本精神団」を設立。住居から「穏田の神様」「穏田の怪行者」ともいわれた。吉三郎は故郷の岩村の八幡神社に、東郷平八郎元帥の神号額と神尾光臣将軍の額を献納した。
略歴
戦後、大逆事件のでっち上げに関与していたことが明らかとなり[4]、現在は「宗教家の名前を借りた香具師であった」というのが一般的な評価である。この事件とも関わりのある同郷(岩村)出身の下田歌子とは愛人関係にあったという説もある。
また、貞明皇后に取り入り、摂政皇太子(後の昭和天皇)の洋行を“神からのお告げ”として中止させようとしたという。
飯野の持っていた人脈は外国人にとって魅力的であり、高宗[5]や孫文[6]も利用しようとしたことがある。
このように上流階級の信望を集めていたようだが、山本権兵衛には嫌われていた[7]。
関連作品
山田風太郎『ラスプーチンが来た』
1979年に、飯野を悪役として、若き明石元二郎と戦う小説『明治化物草紙』を週刊読売に連載するが、飯野の遺族からクレームがきて、連載中止。のちにキャラクター名を「稲城黄天」と改変して、1984年に『ラスプーチンが来た』として刊行された[8]。
脚注^ 『東京岐阜県人綜覧』(濃飛往来社、1938年)p.34
^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 78頁。
^ 警視庁史 警視庁史編さん委員会編
^ 衆議院会議録 第043回国会 法務委員会 第20号