飯盛挺造
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飯盛 挺造
いいもり ていぞう

生誕 (1851-08-24) 1851年8月24日
日本肥前国多久邑
死没 (1916-03-06) 1916年3月6日(64歳没)
居住東京市本郷区弓町
国籍 日本
研究分野物理学
研究機関東京大学医学部
出身校外務省洋語学所
博士課程
指導教員エミール・ワールブルク
主な業績真空式微量天秤の発明
主な受賞歴正四位勲三等瑞宝章 (1909年12月)
プロジェクト:人物伝
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飯盛挺造

飯盛 挺造 (いいもり ていぞう、ドクトル・フィロソフィー、1851年8月24日 - 1916年3月6日) は明治時代初期の日本の物理学者。1884年 (明治17年) 33歳のときドイツのフライブルク大学に留学し、エミール・ワールブルク教授の指導のもとで反射光を利用する真空式微量天秤を考案し、ガラスその他の物質に吸着される水分の量を測定する研究をおこなった。その研究論文によりドクトル・フィロソフィーの称号を与えられた。また、その功績により「微量天秤の先駆者」と呼ばれている[1]。帰朝後は物理学の教育に尽力をした。日本の放射化学の先達・飯盛里安の養父であり岳父でもある。日東十客の一人である。
目次

1 経歴と業績

1.1 出生から東京大学まで

1.2 ドイツ留学

1.3 帰国後の業績


2 微量天秤

2.1 概要

2.2 詳細な説明


3 日東十客

3.1 日東十客歌

3.2 幻の写真


4 栄典

5 著書

6 論文

7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 参考資料

9 外部リンク

経歴と業績
出生から東京大学まで

1851年(嘉永4年)8月24日肥前国多久邑 (現・佐賀県多久市) で生まれた。生地を現在の佐賀市水ケ江、赤松町とする説もある[2]。1869年 (明治2年) 頃、佐賀藩の藩医・池田玄泰からドイツ語の手ほどきを受け、1871年(明治4年)、20歳のとき医師を志して上京し、外務省洋語学所に入学してドイツ語を学んだ。卒業後、1874年(明治7年)にドイツ語教員心得として東京外国語学校の雇となり、 翌1875年東京医学校の雇となり、1877年(明治10年)同校は東京大学医学部と改称された際に助教となった。 当時の医学部は予備5年、予科3年、本科5年で、教授はほとんどドイツ人であった。その年の予備4級生、入沢達吉によれば予科でも理化学の初歩を教えており、飯盛は物理学を教えていたという。 この頃下山順一郎丹波敬三と出会い終生の友となった[1]

1878年、羽生幸七の長女セイと結婚し新居を本郷菊坂町にかまえた。(後にすすめられて本郷弓町に転居)翌年、最初の研究「光線分極論」を東京薬学新誌に発表した[3] [4]。またミュルレル原著を翻訳した『物理学』も1879年から1880年に出版された[5][6]

『物理学』はその後20回以上改版し、唯一の和書の物理学教科書として医学、薬学関係の学生を中心に、1920年代まで広く使用された[7]1881年(明治14年)、下山順一郎、丹波敬三とともに東京大学医学部の助教授となったが志は医学から物理学へ移って行った。1882年飯盛は自費でフライブルク大学へ留学することになり1884年6月17日に留学を許可されている[8]。森鴎外もこの日同様に留学許可となっている。
ドイツ留学 フライブルク大学に提出した学位論文の表紙[9]

飯盛はフライブルク大学でワールブルク教授の指導のもとに真空微量天秤を開発し ガラスの表面に吸着している水の質量の計量をはじめ、各種の物体上の吸着現象を研究し、1885年9月ストラスブルク[注 1]で最初の研究を発表した。 留学期間1年半では充分ではないとして丹波敬三、飯盛挺造の連名で帰朝延期願を1885年11月に提出し20ケ月の延期が認められ[10]1886年(明治19年)1月にワールブルク教授と連名の論文を提出した[11]さらに飯盛は2月に第2の論文を投稿し[12]、これら2つの論文をまとめ学位論文としてフライブルク大学に提出した[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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