飯田街道(いいだかいどう)と呼ばれる街道は諸説あり、現在も、歴史的にも複数が存在する。主な2例として、第一に 愛知県名古屋市から豊田市を経由して長野県に入り、根羽村、阿智村を経て飯田市へ到る道。第二に静岡県浜松市内の飯田地区
に通ずる主要道路を挙げることができる。現在、地図あるいは道路標識で「飯田街道」と確認できる箇所は、以下の3つが知られている。
名古屋城下から八事興正寺に向って斜めに貫く道路。現代の愛知県道56号名古屋岡崎線をたどり、天白川を超えて平針までの区間。
#愛知県道58号名古屋豊田線の豊田市保見地区界隈。
根羽村から豊田市挙母町1丁目交差点へ(国道153号経由)、同市内小坂町10丁目交差点から同7丁目交差点(愛知県道520号豊田東郷線経由)、さらに東郷町諸輪交差点までの区間。
これらの道を結び、1本の街道として地図上に描くことはできない。
名古屋城下から「駿河街道」(前出の県道56号)で岡崎方面に進んで平針で左折し、同県道58号で豊田市保見から足助方面へ向かい、枝下の渡し
で矢作川を渡る。足助から先の国道153号(「三州街道」)を信州飯田までの道と記した資料は多いが、この区間が「飯田街道」となった経緯は、1885年(明治18年)の道路法で指定されたからである。江戸時代の文献(1701年–1840年頃[1][2][3][4])には、名古屋城下より東へ伸びる以下の四筋の道が描かれている。
大曽根から現・瀬戸市へ:守山区大森を経て上品野村へ至る。
現在の愛知県道61号名古屋瀬戸線(「瀬戸街道」)、国道363号に相当。
同じ出発点から現・同市内山口町へ:鍋谷上野、猪子石原を経て矢田川沿いに進む。
現・県道215号田籾名古屋線(出来町通)から同208号上半田川名古屋線等を連絡。
末森村、高針村、岩崎村、岩藤、米野木、三本木、保見、猿投へ至る。
現・県道60号名古屋長久手線?同217号岩藤名古屋線?同58号名古屋豊田線、国道153号に相当。
名古屋城下から川名、植田、平針、祐福寺から宇頭へ至る。
「駿河街道」に相当。
このうち1.と3.の道は別の文献[5][6]で「信州飯田街道」と書かれている。名実ともに由緒ある道である。
1.の信州飯田街道は、中山道の脇往還として栄えた「下街道」の脇道である[7]。東濃から瀬戸、名古屋を結んでいる[7]。
2.の道の先は地図に描かれないほどの道を通って保見へむかい、信州飯田を目指したことを示す道標がある。1.から3.いずれの道も保見を経由している。
また江戸時代に日進市赤池から豊田市挙母町に向かう道は存在し「挙母街道
」と呼ばれ、ほぼ現在の愛知県道520号豊田東郷線に相当する。挙母より矢作川沿いに北上する道は、保見方面から信州飯田に向かう道に足助の手前で合流する。この道も江戸時代からの歴史ある「信州飯田街道」である。
幕末から明治以降
明治時代になって法律で規定された道は年表参照。 ほぼ国道153号沿いであり今と昔のルートは変わらない。この区間にいくつか別名がある。三州街道は三河地方を貫くルートとして、東海道のうち小坂井と根羽村を岡崎経由で結ぶ。
足助から信州飯田の区間
伊奈街道
馬による通運だが農家のサイドビジネスの道として、中馬街道、中馬の道と呼ぶ。
山間部へ塩を運んだ塩の道。
足助地区に伝わる江戸時代の文献ではすべて「伊奈街道」と表記されている。根羽村から先の飯田では「飯田街道」とも呼ばれた。 明治以降、「飯田街道」と呼ばれた道を年表にまとめる。
年表