飯田章
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この項目では、レーサーについて説明しています。作家については「飯田章 (作家)」をご覧ください。

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飯田 章(いいだ あきら、1969年12月18日 - )は、日本レーシングドライバー。愛称は「アキラ」。
プロフィール

出身:
神奈川県相模原市緑区津久井郡津久井町鳥屋

身長:180cm

体重:65kg

血液型:RH+B

愛車:レクサス・LFAレクサス・LS600hトヨタ・86ポルシェ・912トヨタ・AE86日産・スカイラインGT-Rホンダ・NSX日産・GT-Rニスモトヨタ・スープラスズキ・ジムニーメルセデス・ベンツ・Gクラス日産・シルビアS14,S15

姉は飯田裕子

経歴

この節は、一覧または箇条書き方式となっていますが、散文形式のほうが読みやすい場合があります。(2022年8月)


相模原市立鳥屋小学校に入学後、相模原市立鳥屋中学校に進学[要出典]。神奈川県立城山高等学校普通科に入学し[1]日本大学農獣医学部卒業[2]1989年富士フレッシュマンレースに、モータージャーナリストであった姉の代役として19歳でレースデビュー。AE86型カローラレビンに乗り、初戦において3位で入着する結果となった。

日産時代

1991年日産ワークスドライバーの検定に合格し、同年よりN1耐久シリーズニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(NISMO)に所属し参戦。

1993年、この年がグループA規定最終年となった全日本ツーリングカー選手権(JTC)にNISMOから参戦し、N1耐久シリーズのクラス2には土屋圭市大井貴之と共にコカコーラ プレリュードで参戦。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1994年、ニューツーリングカー規定となった全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にザナヴィ サニーで参戦。また、同年より本格的に開催された全日本GT選手権(JGTC)に、山田英二とのコンビでジョンソン スカイラインに乗り参戦。さらには、全日本F3000選手権にも終盤2戦に参戦した[要出典]。

1995年チーム・ノバから全日本F3000選手権にフル参戦し、また鈴木利男とのコンビで第2戦まではJOMO R33、第3戦以降は再びジョンソン スカイラインで参戦。

ホンダ時代 / 国際F3000選手権

飯田がホンダと関わるきっかけとなったのは、日産ワークス時代であった1994年から1996年までの3年間に渡って行われた、高橋国光、土屋圭市と組んでチーム国光HONDA NSX GT2を駆ってのル・マン24時間レースへの参戦である。このうち1995年にはGT2クラス優勝の成績を残した。

1996年国際F3000選手権にフル参戦し、ヨーロッパでの活動が中心となった。この年、ホンダは「リサーチカー」として知られるRC-F1プロジェクトをベースに独自チームでのF1参戦構想があり、そのドライバーとして飯田が起用され欧州に派遣された。しかしこのF1参戦計画は表面化することなく消滅し、飯田も1年で帰国となった。国際F3000での最高成績は第2戦ポーでの8位[3]

1997年、日本に拠点を戻し、この年から土屋圭市と入れ替わる形でJGTCでもチーム国光へ加入。高橋国光とRAYBRIG NSXで参戦した。この年のNSXは前年に走らせていたLM-GT2車両を改造したものでは無く、ホンダがJGTCに本格参戦するに当たって新たに開発したワークスマシンであり、第6戦菅生ラウンドでポールポジションを獲得した。1998年第6戦MINEラウンドで初優勝を飾っている。JTCCにも復帰し、HKSからオペル・ベクトラで参戦。1997年から1999年にはフォーミュラ・ニッポン にフル参戦した。

1999年、現役引退した高橋国光の最後のチームメイトとして、第2戦富士スピードウェイでコンビ最後の勝利を挙げた。

2000年アメリカ帰り服部尚貴、2001年は新進気鋭の伊藤大輔とコンビを組んだが、未勝利に終わった。

トヨタ・レクサス時代?現在

2002年トヨタのワークスチームである チーム・ルマンに移籍し、脇阪寿一とコンビを組み、エッソウルトラフロースープラのハンドルを取り移籍初年度にドライバーズチャンピオンに輝いた。その後も毎年優勝争いに加わり、名実ともに全日本GT選手権/SUPER GTのトップコンテンダーの一人となった。

2005年鈴鹿1000kmレースでは「焼きたて!!ジャぱんADVANポルシェ」でハンドルを取り、クラス優勝(総合8位)を果たしている。

2006年脇阪寿一がトヨタ内のトムスへの移籍に伴い、飯田はチーム・ルマンのエースドライバーになり、片岡龍也とコンビを組む。開幕2戦は不調だったが、第3戦富士スピードウェイではレース終盤、昨年のチームメイトの脇阪寿一に競り勝ち、2位表彰台に立つ。一方で、この年の成績は不振となり、シリーズ12位に終わった。

2007年、GT300クラスで坂東正明が率いるRACING PROJECT BANDOHへ移籍、型落ちとなっていたセリカのハンドルを取ることになった。なお、特認が認められた第5戦菅生ラウンドにおいて優勝を果たし、セリカ最後の優勝を飾った。この年限りでドライバーとしての一線を退き、翌2008年は、SUPER GTのGT500クラスに参戦しているTOYOTA TEAM SARDの監督に就任し指揮を執ることとなった。しかし、チーム・ルマンのドライバー伊藤大輔の負傷により、同チームにて第5戦?第7戦で2年ぶりにGT500クラスに復帰した。しかし、復帰は一時的な物であったため、この年の最終戦で伊藤の復帰に伴い、GTドライバーからは再び退く運びとなった。

2008年-2010年

トヨタがレクサスブランドで開発したスポーツカー。レクサス・LFAの開発ドライバーの一人でもあり、2008年以降LFAでニュルブルクリンク24時間レースにも参戦、2010年にはクラス優勝を飾った。飯田のテストドライバーとしての腕は成瀬弘も高く評価し、成瀬の教えていた訓練生たちに「レーシングドライバーにはな、こういう奴もいるんだぞ」と言った(当時のトヨタ内部では、レーシングドライバーには量産車のことは分からないという偏見があった)[4]


2011年全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の審査員に就任する。8月31日にニュルブルクリンク北コーステストで実施された『LFA ニュルブルクリンク パッケージ』の確認走行で、7分14秒64のラップタイムを記録。日産GT-Rの7分24-秒22、シボレー・コルベットの7分19秒63、ポルシェ911 GT2RSの7分18秒らを抑え、量産メーカーの市販車としては世界最速となるタイムを記録した。

2012年、SUPER GTのGT500クラスに参戦する「KeePer Kraft SC430」のチーム監督を務める傍ら、マカオグランプリのGTカップにマクラーレン・MP4-12Cで参戦し4位入賞を果たしている。

2014年、GT300クラスの新規チームであるLM corsaチームのドライバーとして6年ぶりにGTへと復帰。BMW・Z4のハンドルを取り早速1勝を挙げた。

2015年-2017年

レクサス・RC F GT3のハンドルを取り、引き続きLM Corsaからエントリー。2018年には宮田莉朋にシートを譲る形で同チームの監督となった。


2019年の1月、国際自動車連盟(FIA)が新たに「ドリフト委員会(Drifting Committee)」を設立したことに伴い、その初代委員長に就任[5]。同委員会では2020年3月に、ドリフト走行用車両の統一規格として「DC1」車両規定を採択している[6]

レース戦績

1989年 -
富士フレッシュマンレース・ファミリアクラス(#10 カフェトレド246ファミリア)

1990年 - 富士フレッシュマンレース・AE86クラス(#2 トレド246COMTEXレビン)

1991年

N1耐久シリーズ・クラス1<スポット参戦>(#9 LINEA SPORT TOMEI スカイラインGT-R/BNR32)

富士フレッシュマンレース・シルビアクラス(#84 TM SPORTS シルビア)

富士フレッシュマンレース・AE86クラス<Rd.1のみ>(#2 トレド246COMTEXレビン)(決勝2位)

SCCN筑波モータースポーツフェスティバル・ザウルスレース(#84 アートビューティーザウルス)(決勝DNF)

SCCN筑波モータースポーツフェスティバル・シルビアレース(#84 TM SPORTS シルビア)(決勝6位)


1992年

フォーミュラ・トヨタシリーズ(#18 ART BEAUTY・FT)

N1耐久シリーズ・クラス1(#3 Castrol RB GT-R/スカイラインGT-R BNR32)(シリーズ3位・2勝)

92'チェッカーグレート30レース(#6 ユーノスロードスター)(決勝8位)


1993年

全日本ツーリングカー選手権・DIVISSION1(日鉱共石SKYLINE GP-1プラス/スカイラインGT-R BNR32)(シリーズ4位・1勝)

N1耐久シリーズ・クラス2(#7 コカコーラ プレリュード)(シリーズ3位・1勝)

'93 IMSA GT チャレンジ・シルビアレース(#83 シルビア)(優勝)


1994年

全日本F3000選手権<Rd.9&10スポット参戦>(NOVA with AFP[7] #55 JACCS LOLA T94/ローラT94-50・MF308)

全日本GT選手権・GT1クラス(Johnson NISMO #10 ジョンソンスカイライン/スカイラインGT-R BNR32)(シリーズ13位)

全日本ツーリングカー選手権<rd 11="11" 18="18">(NISMO #31 ザナヴィ・サニー/B14)(シリーズ15位)

ル・マン24時間レース・GT2クラス(総合18位)

JAFトロフィー インターナショナル ポッカ1000km耐久レース・GT2クラス(Team KUNIMITSU #100 ADVAN NSX)(総合2位・クラス優勝)


1995年

全日本F3000選手権<Rd.3欠場>(SHIONOGI TEAM NOVA #10 SHIONOGI LOLA/ローラT95-50 MF308)

全日本GT選手権・クラス1(#55 JOMO R33/スカイラインGT-R BNR33)(シリーズ9位)

全日本ツーリングカー選手権(#31 ザナヴィ・サニー/B14)(1勝・シリーズ6位)

N1耐久シリーズ<スポット参戦Rd.1> #10 ロックタイトGT-R/スカイラインGT-R BNCR33)

ル・マン24時間レース・GT2クラス(総合8位・クラス優勝)

NICOS CUP 第2回十勝24時間レース(Team KUNIMITSU #100 HONDA NSX)(総合優勝)

POKKAインターナショナル1000km耐久レース(Team KUNIMITSU #100 HONDA NSX)(総合5位・クラス優勝)


1996年

国際F3000選手権

ル・マン24時間レース・GT2クラス(Team KUNIMITSU #100 RAYBRIG NSX)(クラス3位)


1997年

全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(NOVAエンジニアリング #10 SHIONOGI NOVA/ローラT97-51 MF308(シリーズ10位)

全日本GT選手権・GT500クラス<Rd.1欠場>(Team国光with MOONCRAFT #100 RAYBRIG NSX)(シリーズ9位)

全日本ツーリングカー選手権(#87 HKSオペルベクトラ)(シリーズ8位)


1998年

全日本選手権フォーミュラ・ニッポン<Rd.3&5?10>(CERUMO #12 COSMO OIL CERUMO/ローラT96-52 MF308)(シリーズ13位)

全日本GT選手権・GT500クラス(Team国光with MOONCRAFT #100 RAYBRIG NSX)(シリーズ10位・1勝)

'98 FIA Grand Touring Championship Round6 SUZUKA 1000km(Team国光with MOONCRAFT #100 RAYBRIG NSX)(決勝DNF)

第5回十勝24時間レース(#4 TK INTEGRA TYPE-R/DC5)(決勝DNF)


1999年

全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(CERUMO #12 COSMO OIL CERUMO/レイナード99L MF308)

全日本GT選手権・GT500クラス(Team国光with MOONCRAFT #100 RAYBRIG NSX)(シリーズ11位・1勝)


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