広島東洋カープに所属していた元投手「飯田哲矢」とは別人です。
飯田 哲也拓殖大学紅陵高等学校野球部 非常勤コーチ
2016年5月25日、福岡 ヤフオク!ドームにて
基本情報
国籍 日本
出身地東京都調布市
生年月日 (1968-05-18) 1968年5月18日(56歳)
身長
体重173 cm
83 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手、二塁手、捕手
プロ入り1986年 ドラフト4位
初出場1989年4月12日
最終出場2006年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
拓殖大学紅陵高等学校
ヤクルトスワローズ (1987 - 2004)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2006)
コーチ歴
東京ヤクルトスワローズ (2007 - 2013)
福岡ソフトバンクホークス (2015 - 2019)
拓殖大学紅陵高等学校
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飯田 哲也(いいだ てつや、 1968年5月18日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手、捕手)・野球指導者・野球解説者、野球評論家。マネジメント会社は ⇒株式会社レガシージャパン。 小学校低学年のころから野球をして遊び、後楽園球場で見た王貞治や張本勲のプレーに感動してプロ野球選手になる事を決意した[1]。小学校4年生の時に上の原メンパースに入団し、投手として本格的に野球を始めた。調布市立神代中学校でも投手をつとめ、3年時には市大会で優勝している[1]。都内の強豪である日大三高や帝京高校への進学も目指したが、中学の野球部顧問と小枝守監督が日大の同級生だった縁もあり、設備や環境に惹かれて千葉県の拓大紅陵高校に入学[1]。 拓大紅陵高では同級生に佐藤幸彦、2学年先輩に小川博文、2学年後輩に高橋憲幸と和田孝志がいて、学校も野球部の強化に注力していた。入学後は外野手となり、さらに2年になると50m6秒1の俊足と遠投100m以上の強肩という身体能力に注目して捕手にコンバートされた[1]。1986年の3年次には春夏続けて甲子園に出場。第58回選抜高等学校野球大会では本塁打を放ち、守備でも1イニングで3補殺を記録する[2] など5番・捕手として活躍している。千葉大会決勝では後にヤクルトの同期となる土橋勝征を擁する印旛高校を破り、第68回全国高等学校野球選手権大会では優勝候補に挙げられる[1] も、3回戦で長谷川滋利を擁する東洋大姫路に0-1で敗れた。 同学年の捕手の中では、鷹巣農林高校の中嶋聡や西日本短大付属高校の青柳進と並んで飯田はドラフト指名候補として注目を集めていた[1]。同年のドラフトでヤクルトは中嶋の指名を予定していたが、阪急が3位で中嶋を指名したため直後に4位で飯田を指名し[1]、ヤクルトへの入団が決まった。身体能力の高さと器用な点を評価していたという。契約金は2,800万円、年俸は320万円(金額はいずれも推定)だった[3]。 入団当初は八重樫幸雄が正捕手だったため、飯田は2番手捕手の座を狙っていた[4]。 1988年オフにはアメリカへ野球留学に行き、マイナーリーグの若手選手のハングリー精神に感銘を受けた[4]。 1989年に初の一軍昇格を果たし、4月12日に代走で初出場する。この年は関根潤三監督により代走および捕手として起用され、22試合に出場した。 同年オフには野村克也が監督に就任する。野村は監督就任直後に『週刊ベースボール』の取材に対して「秦では、自由に走られてしまう」として、若く強肩の飯田を正捕手に育て秦真司を三塁へコンバートする意向を示していた[5]。こうして、秦や中西親志に加え、ドラフトで指名された新人の古田敦也らと9人で正捕手の座を争うことになったが、野村が入院中のため不在だった西都での秋季キャンプで、野村の代理として総指揮を執った高畠康真コーチが飯田の身体能力を非常に高く評価したこともあって[6]、翌年春のユマキャンプに一軍メンバーとして参加し、二塁送球のタイムトライアルでは古田に次ぐ2位のタイムを記録する強肩をアピールした。 野村は自著で、自分がこのユマキャンプで飯田の適性を見出し、飯田に「俊足は親からもらった財産や。捕手をやると必ず足が遅くなる。立ったり座ったり屈伸運動を繰り返すからや。かく言うオレもプロ入り当初は俊足やった。捕手が好きじゃなきゃ、そのミットをオレが買ってやる」「2個で4万円でどうや。その代金で内野手用のグラブを買ったらいい」と言って捕手を諦めさせたと主張していたが[7]、飯田本人は「春季キャンプで僕のキャッチャーミットを取り上げたという話があります。本の中には、ミットをいくらで下取りに出したとか書かれていますが……。もはや伝説のように語られている話ですけど、実はこれ、本当のことではありません。キャンプ中は捕手としてのメニューをこなしていましたし、下取りと言われてもお金ももらってませんから」と語っており、これを明確に否定している[8]。 1990年はオープン戦でドウェイン・マーフィーが故障すると飯田は中堅手として出場し、続いて池山隆寛が怪我をすると遊撃手でも2試合出場するなど目まぐるしくポジションが変わり、開幕後は捕手登録でベンチ入りしている[4]。しかし、4月21日の広島戦で2打席2三振の笘篠賢治の代打としてプロ初本塁打を打つとそのまま練習したこともない二塁手の守備に就いた。外野手用グラブしかなかったため丸山完二守備走塁コーチから練習用グラブを借りるほど急な出場だったが[9]、次の試合から先発出場となり、シーズンを通じて二塁手のレギュラーに定着し29盗塁を記録している。 1991年、外野手として起用を予定していた新入団のジョニー・レイが二塁手での出場にこだわったため、飯田は急遽中堅手にコンバートされた。すると飯田は転向直後から「天職」と呼ばれるほどの巧みな外野守備[10] を見せ、この年から1997年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。また、打撃でも開幕からスタメンで1番に入ると2試合で8打数6安打という好調なスタートを切り、1番打者に定着した。 1992年は柳田浩一や橋上秀樹と競争して[11] 1番打者の座を勝ち取ると、4月26日の広島戦で25年ぶりとなる初回先頭打者ランニング本塁打を放ち、8月4日の阪神タイガース戦では仲田幸司の投球時に単独でのホームスチールを決める[10] などスピードに磨きがかかり、5月からシーズン終了まで27連続盗塁のセリーグ記録を樹立して最終的に33盗塁で盗塁王を獲得。これらの活躍でチームの14年ぶりのリーグ優勝に貢献し、初のベストナインにも選出された。同年の日本シリーズではシリーズ打率.367と活躍して優秀選手賞を受賞した一方、第7戦の7回表2死一、二塁の場面で打席に投手の石井丈裕を迎えて浅く守り、結果として右中間への打球に触れながら同点タイムリーとなった事を悔しがっている[12]。シリーズ後に出場した日米野球では2年目の渡米時に面識のあったシェーン・マックやカルロス・バイエガとの対戦を楽しんだ[13] が、第4戦で本塁突入の際に右肩を脱臼して靭帯も切り、手術を受けている[14]。契約更改で年俸が約3倍増の6,050万円(推定)に増加した[15]。 1993年は周囲の予想を上回る早期回復[16] で開幕戦の先発出場を果たしたものの、打撃が安定せず後半戦に入っても城友博らとの併用が続き、チームも1番打者を固定できずに苦しんだ[17]。同年は打率.216、11盗塁に終わっている。しかし日本シリーズではシリーズ通算打率.400と息を吹き返し、守備の面でも第4戦8回表にダイレクトのバックホームで二塁走者の生還を阻止する好プレー(後述)を見せ、優秀選手賞を獲得した[12]。 1994年は中堅手のレギュラーの座を奪回し、打率.290、30盗塁の成績でオフには年俸が2,500万円増の8,500万円(推定)となった[18]。 1995年は4月8日の開幕第2戦に桑田真澄から受けた死球の影響で打撃不振に陥りシーズン打率は.253に終わったが、全試合出場が評価されて年俸は9,500万円(推定)に増加している[19]。なお、9月30日の神宮球場での対読売ジャイアンツ戦でテリー・ブロスが9回2死松井秀喜を外野フライに打ち取った打球をキャッチし、リーグ優勝が決定した。同年の日本シリーズは第1戦の初回に四球で出塁すると中嶋を相手に盗塁を決め、2回の第2打席では先制タイムリーを放つなど初戦の勝利に貢献したが、シリーズ打率は.261と初めて3割を切っている。 1996年はヒザと足首を痛め、盗塁数は13と大きく減った。 1997年はケガを治してシーズンを迎えたが、7月1日の対巨人戦で内野ゴロを打った際に一塁手の清原和博と接触して左ヒザを打撲した。過去にも痛めた箇所であったことから飯田は不安になり出場に消極的な態度を示したが、そのために怪我を軽傷と見ていた野村の怒りを買って二軍に落とされた。代わりに中堅手に入った真中満が4割近い打率を記録したこともあって一軍復帰は遅れたが、8月8日の復帰後は打撃好調で最終的には打率3割を記録しリーグ優勝に貢献した。しかし優勝決定後の10月11日の対広島戦でスライディングで帰塁した際に左肩甲骨を骨折したたため、同年の日本シリーズには出場できなかった。オフには自身最高となる年俸1億2,500万円(推定)で契約更改し[20]、古田に次ぐチーム2位の高年俸となっている。 1998年は4月23日の対中日戦で左手小指に第二関節脱臼をともなう剥離骨折を負い[21]、5年ぶりに規定打席に到達できなかった。この年にフリーエージェントの権利を獲得し、年俸は20%ダウンの1億円となったが再契約金5,000万円が支払われ、5年間という長期の複数年契約を結んでいる[20]。
経歴
プロ入り前
プロ入り後
ヤクルト時代